忍者ブログ
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

前回からの続きで、言語の不自由の要因として、時間をつけくわえるべきである。
言語の自由を奪っているものは、前の世代から世代への連続であると言える。
 
時間は、言語の恣意性、選択の自由を無効化する。
今ある言語の根拠は、ほとんどが時間である。前の世代がそう言っていたから。
記号が自由ではないということは、記号の中に時間的要因があり、記号が連続していることの表われである。
 
加えて時間は、言語に変化を与える。
一見矛盾する言語の不変性と可変性は、ひとつの要因、つまり時間によるものである。
もしも10年ごとに言語が新しいものに作られていたら、つまり、10年毎に断絶があるのならば、言語の不変性や可変性に対してこのような考察は不要であろう。
すべては、連続するということに起因する。
 
言語の変化は、第一部でも述べてきたものであるが、注意すべきことがある。
言語の変化とは、ひとつの言語の音声が別の音声へ、ひとつの言語の概念が別の概念へと変化するのではない。
ガリア地方のラテン語の変化、necare(殺す)→necare(溺れる)
古典ドイツ語から現代語への変化、Dritteil(1/3)→Drittel(1/3)
先史アングロサクソン語から現代語への変化、fôt(足)、fôti(足の複数形)→fôt(足)、fêt(足の複数形)
これら3つに共通することは、シニフィアンとシニフィエの関係が変化したことである。
記号の恣意性による自由は、このような形で現れる。
言語は、一度、人々の間に流通すると、もう統制をすることは不可能である。同じことは、表記や手話にも言える。
時間の連続性は、時間上の変化と関係する。
 
言語活動から発話を取り除くと、そこには純粋に心的な言語だけが残る。
心的な言語、概念と記号の結びつきは、共同体の中に存在して初めて機能する。
この2つの定義から、共同体が存在し、互いに関係をもたないかぎり、言語は実現しない。
この時、言語の恣意性による自由を、妨げるものは何も無い。共同体は、論理的にだけ考える訳ではない。
ここに、時間の要素が組み込まれる。言語と共同体と時間の関係である。
語る共同体を無視した、時間と言語だけの関係では、外的な変化は生まれないだろう。
この三者の関係から、言語の自由は奪われる。
時間が関わることによって、無限の過去からの干渉があるからである。
連続性には、価値の移動が内在する。私たちの知っているものは全て、時間とともに変化する。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

PR
第4章、静態言語学と歴史言語学、言語学の二重性
 
これは前回の、補足の第3章に続くものである。
言語と時間の関係を、もう少し述べなければならない。
ものの存在には2つの軸がある。
時間の要素を排した、状態としての、同時性の軸(仏 axe des contemporanéités)。
それから、時間に沿った変化を追う、継起性の軸(仏 axe des successivités)。
 
今までの言語学は、時間を無視した議論がなされてきた。時間が大切だとは考えられてこなかった。
その他の科学でも、時間が学問を定義する際に重要な要素であるとは考えられていない。
地理学は、時間軸を前提にする学問だと言えるが、時間軸を排した、状態としての地球が、それらと別枠で語られることは無い。
法律に関する学問は、法律の科学と法律の歴史があるが、この区別が絶対に必要という訳でもない。
政治制度の研究は、時代を無視した情勢を語る。情勢の変化も研究されるが、それが別のものとは考えない。
 
しかし経済学には、経済システム変化の歴史と、経済システムの学問が、2つに分かれている。
なぜなら、経済学が、価値を扱う学問であるからである。
資本や労働の価値の、社会的な釣り合い、平衡が研究される時、現状と歴史を混同するのは致命的である。
150円に対応する林檎Aを考える時、隣接する価値が必要となる。200円の林檎B、150円の梨Aなど。
この時の前提は、それが同時に起こっていることである。
50年前の林檎Cもしくは去年の梨Bは、これらと一緒に語ってはいけない。時間軸は、時間軸のみで捉えなければならない。
加えて今の150円と、50年前の150円の価値は違う。林檎の質も、おそらく違う。
 
言語は、概念と聴覚イメージの、2つの価値を持つだけである。価値に関して、より難解である概念が、言語記号の基礎であると言えるだろう。
言語の価値を語る時、それは隣接し共存する価値でなければならない。同時に存在する、複数の概念との対立。
言語学は、経済学同様、状態と歴史の2つに分けなければいけない。
 
まず、今までの言語をめぐる考察を考える。
まず、伝統文法がある。
17世紀に作られた、ポール=ロワイヤル文法は、ラテン語や以前のフランス語から完全に分離した、当時のフランス語を定める試みであった。
その他のラテン文法家たちの仕事も、ある時代の状態を抜き出したものになっている。
もちろん指摘出来る部分は多い。彼らは話し言葉と書き言葉の区別をしていないし、言語学に関する視野が欠けている。
次は、ボップから始まる歴史言語学である。
これは、単純に、時間時期にそって言語の変化を追ってゆくだけのように見えるが、実際は異なる。気まぐれに状態が組み込まれ、歴史と状態の区別がなされていない。
歴史言語学に続く文法も、ある時代に限定して考察をしていないので、対象があやふやなままになっている。その点、伝統文法の方が科学的である。
 
伝統文法と歴史言語学のどちらからより多くのものを学べるかと言うことではなく、この2つの秩序を対比させることだ重要である。
 
ここで用語の整理をしておく。
通時態(仏 diachronie)は時間軸にそうものであり、歴史進化、あるいは変化などの継起的、動的な側面。
共時態(仏 synchronies)はある地点での平衡状態である。同時的で、静的な側面。
この2つは、言語の動と静の状態であるから、同時に捉えることは不可能である。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

言語の、通時性と共時性の区別が、なぜ大事なのか。
主体の視点には、通時的事象が含まれない。全ては、そのときに起こっている事象である。状態を理解するには、通時的な視点を排除しなければならない。
例えば、ある山を、三方向から同時にパノラマ撮影することに、意味があるだろうか。これは共時的視点と通時的視点の混同である。
写真を撮る主体の視点は、共時的にしかあらわれない。
ひとつの撮影地点からもう1つの撮影地点に移動するときのときの流れ、視点の変化と景色の変化は通時的である。
パノラマ写真とは、それらを混同した1つの状態である。
 
共時性と通時性を区別しない科学があるにも関わらず、言語学で特に強調される理由は何なのか。
1、言語はシステムである。1つ1つの要素が相互関係を築いて存在している為、言語が変化するとは、言語システムの一部分が変化することである。その変化は、必ず、その関係性の中の一部分に起こる。システムの変化と、システムの部分を同時に捉えることは出来ない。
2、通時的な関係と共時的な関係は、異なる結びつきである。通時的関係は客観的に把握出来るが、共時的関係は主観的に捉えられる。
3、言語を構成する記号の量。記号の多さを考えると、2つを同時に捉えることは不可能である。
4、記号の恣意性。原理として、言語の価値が恣意性であるので、ものの信頼性が低い。ものに基づく時間に沿った考察が困難である。
 
ラテン語には、crispus(縮れた)とdecrepitus(老いさらばえた)の2つの単語がある。
crispusの音声の変化も伴い、crépir(漆喰を塗る)がフランス語に入る。すると、décrépir(漆喰を落とす)とdécrépit(老いさらばえた)の2つの語が関係性を持つように誤解される。
 un mur décrépi(老朽化した壁)
 un home décrépit(老いさらばえた人)
しかし、かつてはこれらが2つの異なる語であることが知られていた。この、「当時は」と「今は」の視点が静的な事象である。
静的な状態を知る為に、動的な事象を知らなければならない。実際に発音が変化している。
 
1、共時的な事象と通時的な事象の対比において、共時的な事象には前提として通時的な事象が存在するが、この2つはまったく異なるものである。
2、共時的事象を語る際の主体の視点の受動性を示す為にも、共時的事象の歴史や起源を知ることは有効である。通時的な視点からは、crispus(縮れた)とdecrepitus(老いさらばえた)の2つの語彙を並べることに何も意味は無いが(同様の音韻変化や語形変化を伴っている訳ではない)、共時的事象にとって意味がある。
3、これだけの関係性を持っていながらも、共時的事象と通時的事象は異なるものであるので、同時に扱うことは出来ない。
次回はもっと細かく実例を考察する。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

複数の例を見て、通時的現象と共時的現象の考察を深める。
まずは、古代高地ドイツ語と先史アングロ=サクソン語の複数形の発音の変化である。
古代高地ドイツ語
 gast(客)/gasti(複数形) hant(手)/hanti(複数形)
      ↓             ↓
      gesti           henti
      ↓             ↓
      geste           hente
      ↓             ↓
     (gäste)←現代ドイツ語  (hände)←現代ドイツ語
 
先史アングロ=サクソン語
 fôt(足)/fôti(複数形) tôd(歯)/tôdi(複数形)
      ↓           ↓
      fêfi          têdi
      ↓           ↓
      fêt          têd
 
それぞれ複数形にはiが付け加えられているが、iはそれぞれ先行する母音に対して置換作用がある。古代高地ドイツ語ではaがeに、先史アングロ=サクソン語ではôがêに対置された。
次は語末のiの弱化が生じ、古代高地ドイツ語ではeに書き換えられ、先史アングロ=サクソン語では欠落している。
 
この時、単数形と複数形の関係は、水平な関係である。一方、語形の変化は、垂直の軸によって表すことが出来る。
このような二重性に関して、以下のような考察が出来る。
1、通時的な現象と、それがある単語の複数形である、ということは関係がない。gasti→gäste(客たち)は、tragit→trägt(運ぶ)の変化と全く変わらない。
2、共時的な状態としてのシステムが、時代の数だけ存在していることは確かである。では、システムが丸ごと入れ替わっているのだろうか。
そうではない。刷新はシステムの要素だけに生じるので、fôt/fôtiもfôt/fêtも単数/複数の関係性(システム)は変わらないし、その関係性を保持する為に、項の対立関係は常に存在していなければならない。
3、状態(仏 êtat)は偶然である。伝統文法ではこの哲学が無かった。概念のあり方をそのまま言語で写し取っているということは無い。言語の状態は常に偶然の生起によるものである。
4、共時的事象にシステムがあるように、通時的事象も同じ秩序にしたがっているのだろうか。システムの中に、変化と関係のある事象があるのだろうか。
上の3つの点から考えても、共時的な事象には共時的な科学、通時的な事象には通時的な科学によって扱われるべきである。この2つの領域の秩序は、関係性が無いと言える。
 
その他の例。
チェコ語の名詞には、属格複数形と呼ばれる語形が存在する。しかしハンガリー語には属格複数形の記号が無い。
概念が全て、聴覚イメージとなって現れる訳ではない。言語の状態は偶然であると言う3つめの考察を復唱する。
 
また別の例。
ラテン語からフランス語への過程におけるアクセントの変化について。点がついている音節にアクセント。
 羅 ángelus(天使) metiérium(役目)
 仏 ánge(天使)  metiér(仕事)
ラテン語のアクセントは語の後ろから2番目が短音であると、後ろから番目に強勢がおかれ、後ろから2番目が長音だと、うしろから番目に強勢がおかれる。
フランス語では、語末に無声のeが無い限り、最後の音節に強勢がおかれるという法則がある。
つまり、上の単語は、アクセント位置に合わせるように、語末が切り取られた形になっているということである。本当にそう言えるのだろうか。なぜこのように形が変化したのだろうか。
これはただ、残った音節の問題である。通時的な変化である。
アクセントをシステムとして捉えるのならばなおさら、その結果は偶然でしかない。状態は、その状態を作ろうとする意図とは無関係である。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

チェスと言語は共通点が多い。
チェスも盤上での価値に基づき動くゲームである。駒と駒の相互の関係性により局面全体が定義され、一手一手で局面の緊張関係がころころと変わってゆく。
1、駒の価値は、その他の駒との位置関係(システム)の中で決められる。
2、システムは常に入れ替わるもので、駒の価値は一時的なシステムに基づく。
3、システムの移行は、1つの駒の移動であり、全ての駒が移動するのではない。
 
3に関しては以下の考察が出来る。
Ⅰ、通時的な事象が、チェス盤という範囲とともに、一手という形で明示的に示されている。
Ⅱ、駒の動きは、盤上の状態からは計算出来ない。価値の変化を伴わない駒の移動もある。
Ⅲ、一手前の均衡状態と、今の均衡状態は全く別のものである。
 
チェスと言語の決定的な違いは、チェスは指し手の意図が影響することである。言語の通時的な変化には、計画は存在しない。
しかし例え、価値の移動が計画的であっても、移動によって作り出される新たな局面の本質(システム)との結びつきを示すものではない。
 
言語に作用する法則が、まず、通時的であるか共時的であるを区別しなければならない。
a、通時的な法則はあるのだろうか、そしてその本質は何か?
b、共時的な法則はあるのだろうか、そしてその本質は何か?
この区別をしなければ、その法則の正誤や適性についての議論が出来ない。
 
通時的な法則の例
1、ラテン語のkの音は、フランス語に入るとchの音に変化する。
4、ギリシャ語では、語頭のσがhに変化する。
5、ギリシャ語では、語末のmがnに変化する。
6、ギリシャ語では、語末の閉鎖音が消去される。
共時的な法則の例
2、フランス語のアクセントは常に語の最後の音節にある。
3、ギリシャ語の語の最後には、σ,ρ,ν以外の子音は表れない。
 
通時的な法則は強制的で動的である。
新たな状態に変化する為に、以前の状態は消去される。
共時的な法則は、存在する秩序に関するものである。
もちろん状態の秩序は一時的なものであって、状態を維持するものではない。力の強い通時的な法則により無効にされる。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

言語学が大好きな一般人のブログです。 過去の記事は、軌跡として残しておきます。
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
プロフィール
HN:
てぬ
性別:
女性
自己紹介:
大学院で言語学を学びたい大学生が、日々の勉強の成果を記録してゆく為の、個人サイトでした。
最新コメント
[07/22 てぬ]
[07/20 ren]
[05/24 てぬ]
[05/22 ゆう]
最新トラックバック
バーコード
P R
忍者ブログ [PR]