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言語の、通時性と共時性の区別が、なぜ大事なのか。
主体の視点には、通時的事象が含まれない。全ては、そのときに起こっている事象である。状態を理解するには、通時的な視点を排除しなければならない。
例えば、ある山を、三方向から同時にパノラマ撮影することに、意味があるだろうか。これは共時的視点と通時的視点の混同である。
写真を撮る主体の視点は、共時的にしかあらわれない。
ひとつの撮影地点からもう1つの撮影地点に移動するときのときの流れ、視点の変化と景色の変化は通時的である。
パノラマ写真とは、それらを混同した1つの状態である。
 
共時性と通時性を区別しない科学があるにも関わらず、言語学で特に強調される理由は何なのか。
1、言語はシステムである。1つ1つの要素が相互関係を築いて存在している為、言語が変化するとは、言語システムの一部分が変化することである。その変化は、必ず、その関係性の中の一部分に起こる。システムの変化と、システムの部分を同時に捉えることは出来ない。
2、通時的な関係と共時的な関係は、異なる結びつきである。通時的関係は客観的に把握出来るが、共時的関係は主観的に捉えられる。
3、言語を構成する記号の量。記号の多さを考えると、2つを同時に捉えることは不可能である。
4、記号の恣意性。原理として、言語の価値が恣意性であるので、ものの信頼性が低い。ものに基づく時間に沿った考察が困難である。
 
ラテン語には、crispus(縮れた)とdecrepitus(老いさらばえた)の2つの単語がある。
crispusの音声の変化も伴い、crépir(漆喰を塗る)がフランス語に入る。すると、décrépir(漆喰を落とす)とdécrépit(老いさらばえた)の2つの語が関係性を持つように誤解される。
 un mur décrépi(老朽化した壁)
 un home décrépit(老いさらばえた人)
しかし、かつてはこれらが2つの異なる語であることが知られていた。この、「当時は」と「今は」の視点が静的な事象である。
静的な状態を知る為に、動的な事象を知らなければならない。実際に発音が変化している。
 
1、共時的な事象と通時的な事象の対比において、共時的な事象には前提として通時的な事象が存在するが、この2つはまったく異なるものである。
2、共時的事象を語る際の主体の視点の受動性を示す為にも、共時的事象の歴史や起源を知ることは有効である。通時的な視点からは、crispus(縮れた)とdecrepitus(老いさらばえた)の2つの語彙を並べることに何も意味は無いが(同様の音韻変化や語形変化を伴っている訳ではない)、共時的事象にとって意味がある。
3、これだけの関係性を持っていながらも、共時的事象と通時的事象は異なるものであるので、同時に扱うことは出来ない。
次回はもっと細かく実例を考察する。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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