忍者ブログ
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

社会的な伝播あるいは領土を横切る地理的な拡散として見た言語の波

すべての人間集団で、すべての人間の慣習に当てはまる原則がある。
常に、二つの原理が同時に作用していることである。
一つ目が、言語を分断する原理。地元贔屓の力。
あるの地域で生まれる習性があり、その中で育ち、それを身につけた人々によって、言語の、無限の多様性を生じさせている。
二つ目は、言語を統合する原理交雑の力。
さまざまな習慣を持つ人々が移動し、戦争などによって人々が集まることによって、人々を混ぜあわせ、近づける。
交雑によって、どれかが消え、どれかが拡散することになる。そして伝播してゆくものによって、統一化、均質化される。
何が消え、何が残るかを予め知ることはできない。

交雑の観察。
拡散にはかなりの時間が必要である。拡散は一気に起きず、だんだんと時間をかけて伝播してゆく。
ドイツ語の「(第二次)子音推移」というものがある。
600年ごろに南アルプスで生じ、200年ほどの月日をかけてゆっくりと北上、ドイツ語圏すべてに拡散していった、音韻変化である。

地理的多様性は時間的要因のみで生じる、とした最初の主張を修正しなければならない。
空間の多様性は、時間の中で捉えてこそ意味がある。
しかし、地理上の拡散では、音声上の要因から生じた刷新が、周辺に模倣されることによって起こる。
伝播は地理的要因によってのみ、進む。
時間のほかに、地理上の要因というものを考慮しなければならない。

ラテン系言語での「半分、中間」と言う単語の時間的推移。
 A地域 medio→mejo
 B地域 medio→medzo
上記のようなものを考慮するときは、時間のみに還元することができる。
しかし、拡散と伝播で考えるべきは、mejoとmedzoの力関係である。
一方が、もう一方を、地理的に征服する可能性が、ある。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

PR
時間のみによる刷新の発祥と、時間と空間による伝播は、違うものとして考えなければいけない。
音声学(phonetics)では、伝播を扱わない。
伝播は模倣である。そこに地域の独自性はない。

ある一点について、地元贔屓の力(独自、分断的)と交雑の力(共通、統合的)の区別をするのは容易である。
どちらか一方の力が作用する。
しかし面を考慮し始めると、両方の力が作用するのである。
ひとつのまとまりを考えれば、それが他の地域と分断的であっても、まとまりには必ず共通性が存在する。
刷新が、地域全域に広がらなかったとするならば、それは統合の力が弱かったからだと言うことが出来る。
分断の原因は、統合の力である。
統合の力に対抗するのは、他の統合の力である。

地理的な不連続性に関しては、地理的な連続性の後に言及するべきである。
印欧語の比較言語学者は、言語の多様性をすべて、地理的な不連続(人間の移住)に起因すると考えてきた。
そのように考えるのは間違いであり、ひとつの地域にとどまっていても、印欧語は時間により変化していっただろうし、異なる言語に分離していっただろう。
ドイツの言語学者ヨハネス・シュミットの著作によると、印欧語族の固有言語は連鎖的に繋がっている。従って、地理的な連続の中での多様性を考慮せざるを得ない。

地理的な隔離が多様性を生むならば、その要素を、地理的に連続していた地域が持っていてはいけない。
英語の特徴のひとつは、大陸で起きたp→dの変化が起こらなかったことにある。
それが地理的不連続に起因すると主張するならば、大陸にはpが残っていないことを証明しなければならない。
フランス語地域で起きたvacce→vache(牛)の変化は、フランス北部のピカルディ地方では生じなかった。
オランダ語とドイツ語は完全に連続した地域で生じた分断である。実際に、ベルギーのランブール地方にはベルギー語とドイツ語の過渡的な言語が残っている。

今までは地理上の多様性について述べてきた。
これから諸言語に関して言及してゆくのには、文字表記を欠かすことが出来ない。
ウィーン大学のような蓄音記録をしない場合、言語はメモを取ることでしか保存できない。しかし、書かれた言語の発音をもう一度聞くことは出来ない。
文字表記とは一体何であるかを、考えなければならない。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

 第4章 文字表記による言語の表現
 
書き言葉話し言葉文字の関係はしばしば混同され、両者が言語を構成しているように考えられる。ドイツの印欧比較言語学者、ボップの文法書にも、音と文字の明確な区別は見られない。
しかし、言語と文字表記は異なるシステムであり、文字表記は言語を表現する為のイメージでしかない。
実際には、話された言語よりも、書かれた言語の影響の方が強い。それには以下のような理由が考えられる。
1)文字表記によるイメージが、半永久のもののように固定されしまう。
2)大多数の人にとって、視覚のイメージの方が、聴覚イメージよりも強力である。
3)書き言葉、教育言語、文語によって、音声の言語から独立したシステムが成立する。正書法(仏orthographe)や辞書によって、本による言語が確立する。
4)言語と表記方法に差が生じたとき、言語学者は、表記の形を優先して考える。
 
表記システムには2つの種類が存在する。
1)表意文字システム
言語の音と関係なく、概念を表す文字である。しかし、実際に使用される表意文字のほとんどが、音を表す部分を含んでいる。
漢字の普及を見れば、特に、表意文字は、人間の認識に対しての影響が強いと言える。
2)表音文字システム
一連の音を文字で再現しようとするもので、合理的で言語を書き表すのに適している。。
単位はさまざまで、音節によるものや、音素によるものもある。
例えば、古いギリシャ語は、一つの音に一つの書記記号が割り当てられ、"sh"や"ph"のような無駄な表記システムはなかった。もちろん、一つの音に対して、"k"もしくは"q"のような重複も存在しなかった。
 
では、なぜ、この厳密な音韻表記が保たれずに歪んでしまうにか。
1)借用したアルファベット体系に含まれていない音がある。
ゲルマン民族はラテン・アルファベットを借用したが、その中に含まれない音を、二重字'th'として表記した。フランス語の'ch'、英語の'ee'と'ea'もそうである。
2)間違った語源学に基づく指摘がある。
フランス語の'poids(重さ)'はラテン語'pondus(重さ)'が語源だと考えられた為、'd'が付加されたが、実際はラテン語'pensum(義務)'から来ている。
3)特に原則のない個別的なずれ。
ドイツ語'thum'の'h'は有気音であるとされているが、その他の有気音を含む子音の後にも付かなければならないが、実際はそうではない。
4)最も重要で普遍的な原因は、時間に伴う言語の変化に、文字表記が着いていけなかったことである。
止めどなく変化する言語と、固定され不変性をもった文字とが独立した存在である事を如実に表していると言える。
フランス語の例  発音   文字表記
  11世紀 /rei/  /lei/   'rei'  'lei'
  13世紀 /roï/  /leï/   'roi'  'loi'
       /roè/  /loè/   'roi'  'loi'
       /roa/  /loa/   'roi'  'loi'
  19世紀 /rwa/  /lwa/  'roi'  'loi'
 
以上のような原因で生じる言語と文字表記の、膨大な非論理性の種類の代表を紹介する。
フランス語の/s/は、's, c, ç,t, ss, x, ce'、/k/は'c, u, k, ch, cc, cqu'などで書き表せる。
逆に、一つの書記記号が複数の音に対応することもある。'c'の綴りは/s/と/k/両方の音を表す事が出来る。
そして、間接記法。
英語の語末の'e'は、その前の母音が長母音化する事を示している。
 
このようなずれは、文字が、言語の性質を隠してしまう事がある。
現在、フランス語の二重子音は単純未来にしか出てこないのに、綴り字では二重子音が頻繁に現れるので、分かりにくい。
加えて/h/の気音は音素にないのに、'h'綴りで始まる単語が多い。
 
文字表記が言語とずれて居る程、文字の力は強くなる。
「発音」「発音が変化する」という表現がそもそも、文字イメージを基本に据え、書記記号が基本であるかのような言葉である。
「フランス語では'oi'は/wɑ/と発音する」とは言ってはいけない。/wɑ/は'oi'と書かれる。
まるで書記記号が全てに先立つようないい方はしてはいけない。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

 文字表記の力は、音節だけでなく、文法にも勝る事がある。
特にフランス語では文字表記と言葉の歪められた関係が多い。
 
フランス語の'h'は発音されないが、その事については「気音も'h'の前では冠詞'le'はリエゾンされない」と説明される。
それは間違いである。フランス語には、気音の'h'も気音でない'h'も存在しない。
古フランス語では'omme'と書かれた単語を現在は'homme(人間)'と書いているのである。
'gageue(無謀な行為)'の'eu'を、どのように読めば良いのかと言う議論があった。
'heure'によれば/oe/、'j'ai eu'によれば/y/と読むべきであると言う議論である。
語の派生に従うのならば、'gagar(保証する)'/gajer/→'gageue'/gajure/である。
'geneois'か'gènevois'かという問題は、最初の'e'にアクサンテギュをつけるかどうかということではなく、無声の/e/に先行する最初の'e'が'è'に変化するのかどうかと言うことである。
'v'と'u'の表記上の混同から、'Lefebver'から'Lefebure'が生じた。
かつて無くなった語尾の'r'が復活し、'nourrri'から現在は'nourrir(食べ物を与える)'と発音される。
 
映し出すものとしての文字が、本体であるはずの言語現象を作り出す。
このような現象は言語学ではなく、奇形学(teratology)の領域である。
 
したがって、少しでも昔の、文字表記しか手にする事が出来ない時代の言語を扱う時は、このような歪みに注意しなければならない。
文書を通した言語の研究には解釈が必要である。
文字表記に隠された、固有言語の音韻システム(独 système phonologique)を構築しなければならない。
言語学者が研究対象とするのは、この音韻システムのみである。
 
文字表記から音韻システムを確立するための手がかりとして残っているのは、当時の文法学者の詳細な、言語音の記述である。
しかし、例えば16世紀の文法学者達には音韻研究と言う考えがなく、用語も自分本位で用いていたため、彼らの記述から正確な意味を抜き出すの一苦労である。
 
印欧語派の比較言語学では、しばしば進化の過程の一部分が手がかりとなる場合がある。
もっとも基本的な、ケントゥム語派(centum/kentum/)とサテム語派(satem)の比較から、印欧祖語には/k/があったに違いないことがわかる。
これは、起点のみが手がかりとして手元にある状態である。
加えて、起点と終点だけがあることもある。
例えば、中世の文字がどのような発音を指していたか不明なとき。
中世ドイツ語に置いて、'z'がいかなるものか不明な場合、それは、より古い't'、新しい'ss'の間に配置する事で初めて分かる。
water→wazer→wasser
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
ケントゥム語派』-Wikipedia

拍手

前回あげた、文法学者による発音の記述と、印欧語研究による資料の他にも、文字表記から音韻システムを引き出す手がかりは存在する。
まずは、同じ音に当てられた異なる書記法の存在である。つまり、表記の揺れ。
古ゲルマン語での'zehan(10)'と、'wazer(水)'の'z'は同じものであるのか。
'zehan'は'cehan'と表記される事もあったが、'wazer'は決して'wacer'とは表記されなかった。
 
そして、詩に残された音律システムである。
英語での'make'や'tale'などの語末の無声の'e'の価値は、14世紀にはどうだったのだろうか。
時代を代表する英国の詩人チョーサーは、'tale'を二音節として数えている。
他にも、古フランス語の詩では、'faz'と'gras'で韻を踏んでいるのが見られる。この'z'と's'は似たような音であった事がわかる。
加えて、ラテン語の'a'からきた'e'('mer(海)'、'cher(親愛な)'、 'telle(そのような)')と、その他の'e'('vert(緑の)'、'elle(彼女)')は決して韻を踏まない。
このことから、文字表記では混同されている発音の違いが明らかになった。
ほかにも言葉遊びが資料となりうる。
 
文字表記が、言葉を正確に書き表しているのであるなどと思ってはいけない。
これらの曖昧で不正確な文字表記とは別に、音声を書き表す記号体系の整備が望まれる。
その前に、音声学(仏 phonétique)音韻論(仏 phonologie)の区別をしなければならない。
音声においてどんな要素を記述すべきが十分に分からない段階で、文字体系は得られない。
(音韻論の成立はソシュール以後であるため、現在一般的に用いられる音声学と音韻論の区別は、ソシュールにはあてはまらない。現代でも、フランス語において'phonétique'と'phonologie'が混同される場合が少なくない。)
 
'phonétique'(小林秀夫訳「音韻論」、丸山圭三郎訳「史的音声学」、影浦峡訳「音声学」)
言語の音の、時間や地理的要因による変遷を扱う、進化音声学(仏 phonétique évolutive)であって、言語学の範囲内にある。
言語に使われている音を識別、分類することに重要なのは、聴覚の印象であって、それは、分析不可能である。
 
'phonologie'(小林秀夫訳「音声学」、立川健二、影浦峡訳「音韻論」)
人間の発する音声を分析し、普遍的な音のシステムを組み立てる、音声生理学(独 Lautphysiologie)であり、言語学ではない。
分析不可能な聴覚印象を除外し、分析可能な発声の仕組み、肉体のメカニズムを合理的にシステマティックに研究する。
 
どのように音を作るかは、どのように音が聞こえるかとは関係がない。
しかし、phonologieの出発点は聴覚印象である。
一連の音声の流れの中に、分節を見つけ、出発点としての単位を刻むには、それしか手がかりがないからである。
聴覚印象による節(tempo)の認識がなければ、phonologieでは、'fal'を一体いくつに区切れば良いのか分からないだろう。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

拍手

言語学が大好きな一般人のブログです。 過去の記事は、軌跡として残しておきます。
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
プロフィール
HN:
てぬ
性別:
女性
自己紹介:
大学院で言語学を学びたい大学生が、日々の勉強の成果を記録してゆく為の、個人サイトでした。
最新コメント
[07/22 てぬ]
[07/20 ren]
[05/24 てぬ]
[05/22 ゆう]
最新トラックバック
バーコード
P R
忍者ブログ [PR]