第3章 言語を構成する具体的な実態は何か
実体とは、存在を構築する本質である。
言語学以外の科学の分野には、扱うべき存在が組織化されて目の前にある。
しかし言語学には、見れば直ぐに分かる存在(仏 être)、実体(仏 entités)、単位(仏 unités)が存在しない。
言語は内的な現象で、そして、概念と聴覚イメージ、2つのものの結合を前提としているので、言語の実体を取り出すのは難しい。
単位のようなものがあっても、それが、結合する2つの要素に共通な単位を与えるものでなくてはならない。
聴覚イメージを区切れていても、概念を区切れていなかったり、またその逆も、避けなければならない。
あるいは、文字だけを扱って、言語全体を語るようなことがあってはいけない。
聴覚イメージの、感覚的、モノ的側面だけを扱っていると、具体的な対象としての言語に取っては、十分に抽象的で、意味が無い。
また、心理的な概念のみを扱う事は、心理学の単位になりこそはすれ、言語としては抽象的な一部でしかない。
概念は、聴覚イメージの価値(仏 valeur)、質(仏 qualité)でなくてはならない。人間にとっての、身体と魂の関係である。
あるいは、化学のように、水(H2O)を水素(H)と酸素(O)に分ける作業を、言語では出来ない。
言語の結合を概念とイメージに分解すると、言語の実体が無くなってしまうからである。
結合を無視する事は出来ない。
実体の境界を定めるという事は、モノ的作業ではないが、モノ的存在から考えるべきである。
モノ的要素があるからこそ境界を定める事が出来、また、境界を定めるのが必要なのである。
聴覚イメージだけを考えるならば、それは一本のひもだと言える。
そこには事前の句切れも目安も無い。
重要な事は、考えられる境界が、常に概念と境界を共有しているかの確認である、概念の鎖と音の鎖は重なり合わなければならない。
一つの境界を区切るのにも、大量の発話のサンプルが必要である。
一続きの句切れの無い発話、laforsduvã(仏 la force de vent「風の力」)、aboudfors(仏 à bout de force「力尽きて」)から、共通の単位であるforsを抜き出す事は簡単ではない。
また、il me force à parle「彼は私に話す事を強いる」のforsは、上記のものと異なる単位と、分類される。そこには、概念の差異がある。
これは語の例だが、単位には様々な大きさがある。
小さいものでは例えば、形容詞を作る接尾辞-eux。複合語の要素も単位と成るだろう。単位の大きさはここでは問題にしない。
単位を見極める際、概念と聴覚イメージの結合を見て、同じものであると判断する決めは何か。言語の同一性(仏 identités)は何に現れるのか。
第一の例として、私たちは昨日でも今日でも明日でも、5時52分コルナバン駅発の列車を、同じ列車であると考えている。
語り部のいう「戦争」という単語を、15回20回と数える事が出来、同じ単語と認識している。
しかし、それらには、異なる行為が存在する。
また別の例として、同音異義語の問題がある。
聴覚イメージが同じでも、概念が異なるもの。lentilleに含まれる「野菜」と「顕微鏡」の同一性はあるのか。
同一性は主観的で、定義不可能な要素が含まれている。
言語の単位には、概念と聴覚イメージの完全な一致が見られなければならない。
その上で、同一性の問題は、単位の問題と同じであるという事が出来る。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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第4章、言語の抽象的な実体
抽象的実体(仏 entité abstraite)は、具体的実体に関する研究が事前になされていなければ語る事が出来ない。
今まで、言語に関して具体とは、音の単位に関するものを言ってきた。
抽象とは、そのような直接的な主体の働きかけではなく、主体の行為により間接的に理解出来るものである。
言語には順序が存在する。
古フランス語では、名詞を並べるだけで、"de(の)"を用いずに、所属を示す事が出来る。"de"の概念は、順序のみによって判断される。
Hôtel(宿) + Dieu(神) = Hôtel Dieu(神の宿)
さらに、"désireux(心配な)"という単語が、désir-と-euxの2つの単位からなる事を認めても、eux-désirとは言う事は出来ない。
言語は線状であるが故に、前と後ろがあり、順序が手だてとして存在している。
順序は抽象的な実体である。けっして具体的ではない。
活用には種類がある。
ラテン語のdominus(主人)とrex(王)の属格である、domini(主人の)、regis(王の)、regum(王達の)には-iと-isと-umは異なる言語である。
しかしこれらは同じ価値を持ち同じように用いられる。言語的、モノ的基盤から離れた抽象が存在する。
それがつまり、属格という価値である。
このような同一性のシステムも、言語の仕掛けであると考えられる。
このような分類がどこまで有効であるかははっきりしない。
なにせ、具体的な実体の研究が先行するべきである。
最終的に抽象的な実体に関する考察は、言語が具体的単位を基盤として成っている事がわかるだろう。
空によって何かの関係が示される時。L'homme j'ai vu(私が見た人)
その空には、具体的な基盤が存在する。L'homme que j'ai vu(私が見た人)
L'homme j'ai vu(私が見た人)という単位にも、立ち戻るところは具体的な基盤である。
最後に抽象(仏 abstrait)に関する考察が必要である。
抽象には、まったく言語と関わりのないものがある。
音とモノ的な言語から離れた、心理学の領域の意味。それから、意味とモノ的言語から離れた、音。これらはもはや言語ではない。
一方で、言語には抽象的なものなどないと言う事も出来る。このとき「抽象」の言葉遣いが前述のものと異なる。
主体の意識に現れるものは、具体であり、主体の中に抽象は存在しない。抽象化するのは文法学者のみだ、という主張があり得る。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
第5章、言語における絶対的な恣意性と相対的な恣意性
どのような言語の恣意性にもレベルがある。
完全に恣意的な記号は限られた一部で、その他には名付けと言う現象が介在し、やや恣意性が劣る。
恣意性は、無根拠性(仏 immotivé)ということもできる。
記号と音の関係に、相対的な恣意性が生じる事がある。
vingt(20)は完全に無根拠であるが、dex-neuf(19)は、意味を喚起する言葉、dix(10)とneuf(9)、を含んでいる。
dixとneufは、それぞれは完全に恣意的である。しかしそれらが合わさることによって、相対的に根拠づけられる。
ormeau(樫)、chêne(こなら)に対するpoirier(梨の木)←poire(梨)も同様である。
このような例は様々に存在する。
そして、ships(船)は、船と、複数の概念を含んでいる。
この語に含まれる複数の概念は、birds(鳥)、flags(旗)、books(本)と共通する概念である。
men(男たち)は複数の概念を含むが、そのほかの語を喚起することはない。そして、sheep(羊)は何も喚起しない。
このような対照的な例を通して、絶対的な恣意性と相対的な恣意性を区別する事が出来る。
言語記号を語る際は、基盤となる恣意性に基づいて、進める事になる。
言語をシステム、つまり有機的組織になさしめているものは、このような基盤からの観点が必要である。そのほかの言語に関するすべては、この基盤の上に在る。
絶対的に恣意的な語彙と、相対的に恣意的な語彙がどれほどの割合で、ひとつの言語の中に含まれているかを、言語ごとに比べる事が出来る。
ある言語には無根拠な語彙が多く、ある言語には少ない、という差が存在する。
これは言語の進化に言える。言語が進化する過程は、この割合の変動である。
ラテン語からフランス語へと進化する際に、多くの恣意性の低い語彙が、無根拠な語彙に入れ替わった。
ラテン語in(否定)+amicus(親切な)=inimicus(敵対)から、フランス語ennemi(敵)へ。
このような関係は何百もの例が認められ、フランス語の性格に大きな影響を与えている。
英語も、ドイツ語よりも多くの無根拠な語彙を含んでいる。
どんな言語も、無根拠な要素の割合がゼロになる事は無いし、ある下限を越えることもない。
無根拠なものが最大になった言語は、ある意味で、語彙的であると言える。中国語などは独立した区切りの列である。
無根拠なものが最小になった言語は、ある意味で、文法的であると言える。印欧祖語やギリシャ語などは、鎖のような輪のつながりがあり、1つの輪は別の輪を喚起する。
両者の関係は、直接の関係ではないし、同義でもない。恣意性を考慮しなくても、諸言語は語彙的と文法的に傾向が分かれる。
重要なのは、2種類の恣意性の区別が、その他の関係を明らかにすると言う事である。
相対的恣意性には、相対的という意味を考える上で、重要な2つの関係性がある。
1つは項(仏 terme)と項の関係である。
相対とは、必ず、対比される他の項が存在する。次にあげる関係に比べれば外的な関係である。
例えば、poirier(梨の木)とpoire(梨)。
もう1つは、項の中に含まれる、量あるいは価値(仏 valeur)の関係である。つまり、概念と聴覚イメージ。
この内的な関係は、もちろん、外的な関係を持たなくても存在している。
しかし、この内的な関係がなければ、2つの項の外的な関係は築かれない。
désireux(望むこと)か思い起こされるdésir(望み)は、ただの、聴覚イメージによる結びつきに過ぎない。
この2つの項の関係を築く為には、désireuxとdésirの聴覚イメージ、désireuxとdésirの概念の関係が成り立たなければならない。
内的な関係を知らずに、外的な関係だけを知る事は出来ない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
以前述べた第1章への追加をする。第1章と第2章のあいだに入るべき考察である。
言語は全て、個人的な発話の集合から得られる産物である。
しかし、発話は言語から作り出されたもので、言語の無い発話は存在しない。
言語の社会的な認可によって決まる、集団的なものである。
言語は集団に居る個人の一人一人の頭の中に貯蔵されているが、同時に、集団的である。
1+1+1+...+1+1=1
発話は個人のものであり、その場限りのものである。
発話の総体は2つに分かれる。個人が作り出したもの、あるいは文、そして、作り出したものを用いた発話行為。
集団的な発話は存在しない。1+1+1=1+1+1
言語と発話は、区別しなければならない。
言語は社会的な習慣であり、個人を無視した、心理学の領域である。
発話、そして同類に分類すべき発声を含めて、それらは心理物理学の領域である。
2つは異なる領域なので同時にたどる事は出来ない。
隣り合う学問としてかいま見る事は役に立つであろうが、しかし、それ以上の事はしてはいけない。
第2章、記号システムとしての言語(この表題でも良かった)
第2章で指摘したのは以下の2つである。
1、言語記号は恣意的である。
2、言語記号は広がりを持ち、それは一次元の方向に限定される。
シニフィアン(仏 signifiant)とシニフィエ(仏 signifié)の用語があると良いだろう。
記号を構成する要素が、聴覚イメージとしてのシニフィアンと、概念としてのシニフィエである。
上の考察は以下のように書き換える事が出来る。
1、言語においてシニフィアンとシニフィエの結合は完全に恣意的である。
2、言語において、聴覚的な本質により、シニフィアンは時間の中で展開され、時間と同じ特徴をもつ。
a)広がる特徴
b)ただ一次元の方向のみに広がる特徴
以前使用した記号(仏 signe)という言葉は曖昧で不明瞭である。
しかし、シニフィアンとシニフィエの結合を、的確にあらわすのは難しく、適した言葉が存在しない。
記号、項、語など、それらはこの結合の一部分しか示さない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
*第2部、第2章と第3章の間に入れるべきもの。
第3章、記号の不変性(仏 immutabilité)と可変性(仏 mutabilité)
シニフィアンのとシニフィエの関係は恣意的であると述べた。その関係は自由に選択できるし、置き換えも可能である。
しかし、言語を用いる社会では、記号は強要されるものである。個人や共同体が勝手に記号を入れ替えることは出来ない。
自由でありながら選択の余地のないという、矛盾がある。
この原因は何だろうか。
まず、言語に関して、遺産であると言う観点がある。
名付けの、シニフィアンとシニフィエの契約の成立は、純粋に、想像上の行為であるり、現実ではない。
言語はいつの時代でも、その前の時代から、完成したものとして引き継がれた遺産である。
そして言語はいつの時代でも、常に歴史的な起源がある。
なぜ言語が自由ではないかという問題は、社会的要因と歴史的要因のバランスである。言語の疑問は他の社会制度の疑問と重なる。
その他の遺産や社会制度と比べてみることは有効であろう。
例えば、法律。法律は変えてはいけなかったことが無い。
それから他の記号システム。それらはしばしば、全体の突然変化が可能である。
さて、言語の不自由に関する考察をいくつか述べてゆく。
外国語の習得の困難さを思い出せば、変化の難しさもわかる。
言語活動における意識、無意識の判断の難しさも、その不変性を支持している。
言語外の要因としては、
1、言語は毎日、一日中、個人に使用されていること。
これは民法や儀式などと比べて、変化が制限されている理由である。
言語自身に含まれる性質。
2、言語が大量の記号から成っていること。
言語がアルファベットのように、20個やそこらしかなかったら、それを改革するのは容易であると考えられる。
言語程多くの記号を用いたシステムは、まだ見つかっていない。
3、言語の恣意性。
シニフィアンとシニフィエの結合に根拠が無いということは、一度出来上がってしまうと、そのことに関して議論が出来ないということである。
議論の為の、他と比較する尺度が、そこには無いのである。
4、言語が資料体(corpus)、システムであること。
つまり、言語は1つのシニフィアン、1つのシニフィエの結合の集合ではない。
ひとつのユニットが近隣のユニットと相互作用する、複雑な組織である。
言語の劇的な変化は、専門家である文法学者と論理学者の集団以外に、起こすことは出来ない。
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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