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「20世紀言語学の原点は、ソシュール」であると、
必ずと言ってよいほど、言語学入門書に書かれているだろう。
時代は繰り返す。
ソシュールの主張は決して、オリジナルではない。

ソシュールの前、
19世紀の言語学は主に歴史言語学(histrical linguistics)と呼ばれるものであった。
各国語の語源や
ラテン語がイタリア語、フランス語、ポルトガル語へと変形してゆく様を、
歴史的に捉えてゆく通時的言語学である。
しかし、19世紀の歴史言語学の問題は、
ルネッサンス期の歴史言語学の流行で、すでに考えられていた問題を、
モダンな視点で再検証したに過ぎない。
ルネッサンス以前と、ルネッサンス期と19世紀の間には、
ソシュールの議題と同じ、理論と記述への関心があったとされる。

ソシュールの言うシニフィアンシニフィエの区別は、
アリストテレスが「声の中にあるもの」と、
「精神の中にあるもの」と表現したものと類似していると言えるし、
特に、意味と、意味されるものの区別はストア学派の重点とされていた。

ソシュールの主張とされる言語の特性であるメタ言語は、
既に合う具すアウレリウス・アウグスティヌスによって、verbumという言葉で捉えられていた。

通時的共時的な言語のあり方を、
18世紀の学者ジェームズ・ハリスは「語源」と「体系的順序」で区別しているし、
19世紀にはゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツは「同時的」、「継起的」という用語を用いている。
ソシュールはこのガーベレンツの説を取り入れている。

現代言語学の基礎も言える、parolelangueの区別は、
現在はよく、チョムスキーのperformanceとcompetenceと比較される。
ヘーゲルは『百科全書』のなかで、言語について、
「言」と「その体系である言語」の区別を示唆している。
ガーベレンツは言語を「言」「個別言語」「言語能力」のみっつに分類されている。

また、言語の恣意性についても、
すでにアリストテレスによって、「記号は自然に機能するのではなく、制度・社会的に定められた伝統に従って機能する」と言及されている。
また、恣意性という言葉も、ソシュール以前に既出であり、
16世紀にはホッブズなどが指摘している問題であった。

このように、20世紀の言語学は脅威の跳躍を成し遂げたわけではない。
しかし、過去の偉人達の考えを、復唱しただけでもない。
ソシュールは雑多な思考を分かりやすくまとめたというだけでも、十分な偉人であると言える。
残念ながらガーベレンツの著作は日本語では読めないらしいが、
ガーベレンツとソシュールの関係を主張するコセリウの著作はいくつか邦訳が出ている。

参考文献
エウジェニオ・コセリウ著 下宮忠雄訳 『一般言語学入門』 三修社 1980

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フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は、
1857年にスイスのジュネーブ生まれた。
学者の多い名家の生まれで、
ソシュールは言語学を志し、ドイツに留学する。
ドイツにて、『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚え書き』を出版する。
ライプチヒ大学で博士号をとり、
しばらくは、パリ大学やジュネーブ大学で比較言語学の講義を担当する。

しかし、パリに居たころには既に、比較言語学の方法に関して疑問を抱いており、
ジュネーブに戻ってきてからは論文を発表していない。
ソシュールの言語観や言語学の姿勢に関しての公言は、
1906-07年、1908-09年、1910-11年に3回の「一般言語学」の講義を行っただけである。
のちに体調を崩し、1913年に没した。
現在知られているようなソシュールの(支持していた)学説に関しては、
講義用のメモ程度しかなく、
論文や本として、まとまった記述が残っていない。

そこで、ソシュールの弟子であるのシャルル・バイイとアベール・セシエが、
1910-11年の第3回講義に出席していた学生達のノートを編纂し、
『一般言語学講義』と言う名で、1916年に出版した。
両者は、直接ソシュールの講義を聴いておらず、
この本は、二人の解釈がかなり含まれてしまっていると批判も多い。
のちにソシュールの講義を聴いていた他の学生達のノートが多く出版されている。

その中でも、ミエール・コンスタンタンは第2回、第3回講義に出席し、
稀に見る詳細さで17冊の講義ノートを残している。
その第3回講義分の10冊の中から6冊分ほどを、和訳した本が出版されている。
学生用に、ということなので、これから
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』を読んでゆく。

参考文献
町田健 『コトバの謎解き ソシュール入門』 光文社(光文社新書) 2003
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
  『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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 ダルメストテールとハッツフェルドによる辞書によると、
言語学とは、「諸言語の科学的研究」とある。
言語学以前の研究と、言語学を区別する上で「科学的」という言葉は重要である。
では、言語学以前とは何なのか。
それは3つの段階に分かれる。

1つ目は、文法である。
古代にギリシャ人が発明してから、そのまま受け継がれた考えで、
哲学的要素もなく、理論への関心である。
全ての言語活動は、正しい言語活動と、正しくない言語活動に分類された。
言語を俯瞰的に捉える視点が欠如している。

2つ目の段階は古典文献学である。
批判的な精神でテクストに向かうという、新たな原理をもたらした。
文献学において言語は、文献学に含まれる様々な対象の一部に過ぎなかったが、
「正しさ」から解放され、ある程度の歴史観を得る事が出来た。
しかし、文献学の専らの関心は、言語に含まれる膨大な情報であり、
言語そのものへの関心とは異なっていた。

3つ目は、比較言語学。特に印欧語研究である。
これは、地理的に離れた諸言語の関係性を暴き、センセーショナルな研究であった。
諸言語を包括する言語族の存在を明らかにし、
特に印欧語族の学者は、その諸言語の比較にどんな意味があるのかも知らずに、
ゲームのように多くの論文を書いていった。
文献学に対抗し、言語に対しての関心であった事は評価出来るが、
純粋にさまざまな言語を比較するだけであった。
しかし、後のロマンス語派の研究が、言語学の本当の対象を知らしめた。
印欧語と違い、ロマンス語には、ラテン語と言う原型(プロトタイプ)が存在した。
そして、文献によって、その変容の歴史を数世紀にわたり追う事が出来た。
全ての諸言語を平面的に観察していた印欧語研究には、歴史的視点が欠けていた。
歴史的な視点は、言語と言語のつながりを明らかにした。

文献学にも、比較言語学にも存在する大きな過ちは、
話し言葉と、書き言葉の区別をしていない事である。
言語学の素材は、人間の言語のあらゆる変異である。
時代や地域の優劣は存在しない。
そしてあらゆる時代の言語を知る為に、言語学は必然的に、書き言葉を扱う。
しかし、真の対象は話し言葉であり、
書き言葉は、話し言葉の入れ物、外装である。

言語学の目的は、諸言語全ての歴史を追う事である。
そして、歴史から、最も一般的な法則を引き出す必要がある。
一般法法則と、個別的な法則は、区別しなければならない。

言語学は、一般文化に関わる研究に分類される。
テクストを扱う全ての学問に、言語学は貢献する。
特徴的な人間性の一部としての言語への関心は、専門家だけのものではない。
言語に関する叙述は多くの過ちと幻想、妄想を生み出してきた。
言語学が、この過ちを修正するのである。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
  『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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言語に関する現象、もしくは研究対象となるような、
包括的な言語全体とはなんだろうか。
一般的な言語現象とは、すでに抽象化された知識であり、
何を一般化したものであるかを考えなければならない。
かといって、部分の寄せ集めで、全体が出来る訳でもない。

第一段階として、言語に関して個人社会を分ける事が出来るだろう。
個人に言語活動能力が備わっていると考える事が出来る。
肺や発声器官は、まさに、個人の所有物で、それによる発声は個別的で偶発的である。
言語活動は、一人でも出来る。
しかし、言語は違う。
一人一人に備わった能力は、共同体により行使の手段を手に入れる。
個別の集合以上の、本質的な、普遍的なものである。
つまり、社会的な産物。

言語と言語活動の関係は、音楽に例えられる。
名曲はさまざまな個人によって奏でられるが、作品そのものは、個人とは区別される。
言語は、抽象的な「一人一人の脳に蓄積された財」として存在し、個人の産物ではない。
しかし、作品なき演奏活動が存在しないのと同様に、言語なき言語活動は存在しない。

アメリカの言語学者ホイットニーは、
言語活動ではなく、社会制度としての言語に重点を置いた。
表出が、聴覚イメージであっても、視覚イメージであっても、言語の本質は変わらない。
言語のように、社会に存在する万人に関係し、
いかなる権力を以てしても恣意的に変更出来ない社会制度は、他にない。

そして言語は、記号学的事象に分類される。
これもまた、他の記号に基づく制度と異なっている。
言語は、内在するシステムによって、記号が直接、指し示したい概念を喚起する。
海上の信号や、軍人の合図のラッパ、手話や点字、文字もそうである。
音声だけでなく、これらは似通った変化の法則を示している。

社会的な産物としての言語を、言語学の対象とする限り、
まず、言語学者は、諸言語の研究から始めなければならない。
社会の産物の多様性を研究する。
出来るだけ多くの産物を知ることが重要である。
そして、それらから、特殊や偶然を排し、
一般的で、本質的で、普遍的な、極度に抽象的なものを見出す事が出来る。

その後に、無限の言語活動を生じる、個人の言語使用に関しても述べる必要がある。
個人が社会的な産物を扱うという事が、どういう現象なのか。
前段階で排除した言語の側面を見る。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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第1部 諸言語
植物学や昆虫学と同じように、「言語」に関わらず「諸言語」を分類する事は出来る。
「言語」とは論理的な側面である。
「諸言語」は、言語学者がこの地球上で手にする事が出来る具体的な対象である。

第1章 言語の地理的多様性 異なる種と多様性の程度

言語の多様性には二つの種類がある。
国から国へ、町から町への移動によって認識出来る変化と、時の流れに従う変化である。
必ずある世代に属している観察者に取って、時間の多様性は認識しにくい。
それに比べて空間の多様性は知るに容易く、人々を、もっとも明確に分類する基準である。
原始の人々に取って、言語の違いは習慣の違いであり、服装や装飾、武器の違いと同等であった。
この認識は(肌の色や体格差など、人類学の域に至らない限り)正しい。
「固有言語」とは、ギリシャ語で”idiome”といい、一民族に固有の特徴を持つ言語を指す。
ギリシャ語では、一民族の習慣という意味で、それは言語を含んだ諸習慣を指す。

どの民族にも、自分たちの言葉が正しいという意識は存在していた。
ギリシャ語の”barbaroi(バルバロイ、異民族)”は、
ドイツ語の”balbus(吃音、どもり)”と同じ言葉である。
インド語族では、話し方を知らない人と、吃音者を同じ単語で表す。
このように、異なる言語を話す人を、話す事が出来ない人とする認識は間違いである。

このように言語の多様性は、言語学を発展させるのに十分に興味深いものであった。
しかし、ギリシャ人は異なっていた。
多言語の存在も方言の多様性も認識していたが、彼らの興味は書き言葉であり文法であった。

ここで、二点書き加えておく事には、まず、言語の多様性は無限である事だ。
しかし、多様性と文法を扱うものが、同じ言語学であって良いのだろうか。
この二つを言語学内で結びつけるものは何なのだろうか。
もう一つの点は、言語の多様性を、民族的なものと認識する事である。
より複雑な民族との関わらせることで、地理的多様性の奥へと踏み込む事が出来るし、
言語の時間的多様性、そしてそれを阻止しようとする動きも考える事が出来る。

多様性の次に重要なのが類似性である。
ギリシャ語とラテン語、もしくはフランス語とドイツ語の類似性は、
民衆が一番良く分かっている事だったので、それを確かめるために科学者は必要なかった。
このため比較言語学に発展が遅れたのである。
類似性よりも大きな枠組みに、類縁性がある。
これは、系譜、家系的な考え方で、一つの共通の起源にさかのぼる事が出来る。
そしてこれが言語族と言う新たな枠組みをつくる。
さらに類似性を追求するのならば、遠く離れた言語族の、類似性の限界に直面するだろう。

ここで、多様性をまた二分する事が出来る。
ひとつは、類縁性の中の多様性
つまり、同じ言語族に分類される中の、多様性である。
もうひとつは、認めうるあらゆる類似性を越えた多様性
ヨーロッパから出るならば、ほとんどがこのような言語である。

この決して類縁性を見つけられない言語を、言語学者はどのように扱うべきなのか。
セム語族と印欧語族の類縁性を見つける努力もあり、
イタリア人のトロンベッティは、世界中の言語にある類縁性を示そうとした。
しかし、科学をするかぎり、真実らしい事と証明出来る事の溝は大きい。

それでは、類縁性の見出せない二つの言語を比較する事は出来ないのだろうか。
歴史的関連を掲げる比較が不可能でも、
文法構造や言語と思考の結びつきの違いを比較する事は出来る。
この二種類の多様性の研究は、まったく異なるものとなる。

さて、多様性にも程度がある。
類縁性の中の多様性にも、近い遠いが存在する。
ギリシャ語とラテン語の違いは、サンスクリット語から見たら微々たるものである。
突き詰めてゆけば、「方言」と言うものを目の当たりにするだろう。
「言語」と「方言」の明確な境界は存在しない。
従って、この二つの語彙の意味付けはしない。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
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