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 第2章 地理的な多様性という事実を複雑なものにするかもしれない様々な事実

ここでは、複数の固有言語が同じ地域に存在することについて考える。
それは、言語学的現象としての、言語の内面に影響を与えるような、混成ではない。
また、スイスのような、ひとつの国家権力の領土の中に、地域的に分かれて複数の言語が存在しているような状況でもない。
同じ地域に、重なり合って、複数の固有言語が存在している状況である。
複数の文語、もしくは公用語教養言語共通語コイネー(標準語)と呼ばれるものが共存している状況である。

第1章では一般的な事実として、言語の多様性の地理的な側面のみを扱った。
言語は人間とともに頻繁に移動する。
言語の相違を引き起こす原因は、場所の相違であると言える。
同じ地域、一つの言語の範囲と思われる中に、複数の言語が共存している事は、歴史的に珍しくない。

この状況を作り出す背景はいくつもあるが、多くが植民地支配によるものである。
先住民の言語と、征服者の言語が重なり合い、上下関係を持って押し付けられる。
これは、近代だけとは限らない。
アイルランドのケルト語と英語の関係も同じであるし、フランスのブルターニュ地方のフランス語とブルトン語など、同様の関係はいくつもある。
特に、ハンガリーのトランシルバニアでは、現地に行かないと、その土地で何語が話されているのかわからない。
都市と地方など、複数の言語が局在していることもあるが、たいてい、その境界線は曖昧ではっきりしない。

言語の競合状態が、外部の権力によってもたらされる以外の状況がある。
それが、ジプシーなど、遊牧民の存在である。
いつやって来たのか分からないが彼らの目的は、征服や植民地とは異なる。
ローマ帝国は、この、もっとも複雑な言語の共存状況であっただろう。
共和制の時代のナポリでは、少なくとも4つの固有言語が共存していた。
古代地中海では、一つの言語だけを話していた地域はほとんどなかった。

多くの国家では、これとは異なる方法で、複数の言語が二重に存在している。
自然言語には方言しか無い。
言語は常に分裂しており、その中の一つが、文語に選ばれる。
文明化した都市の方言であったり、権力者の方言、または政府のことばや、宮廷のことばであることもある。
それが国全体に広く利用されるように、決められるのである。

結局、あらゆる文語をもつ国家は、文語と諸方言の多言語社会になり、
その国家に所属する人は、文語と地元の方言の、二言語使用者となる。
文明のある段階で必ず起こる現象で、ギリシャ語でのコイネーである。
バビロニア碑文からも、公用語の存在が明らかになっている。
ところで、公用語が必ず文字化されなければならないのだろうか。

つぎは、地理的多様性の生じるプロセスについてである。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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第3章 原因の観点から見た言語の地理的多様性

第1章では地理的な多様性に関して見た。
そして、多様性には2種ある。
絶対的な多様性と、類縁性の中にある多様性である。

絶対的な多様性を扱うと、どうしても、知りうる限界や言語の起源など、他の領域の問題に関わってくる。
地球上の全ての言語をひとつに還元出来ない事が大きな問題になる。

類縁関係の中の多様性は、観察をする事が出来る。
ラテン語の変遷を、手に取り見る事が出来る。
ヨーロッパから入ったアングロ=サクソン語や、カナダのフランス語等、
地理的な、地図上の隔離によって、言語が独自に発展してゆく事例を扱う。
特に海などで分断されたふたつの言語の差異は、時間がたつとだんだんと目立ってくる。
それらには、語彙の相違、文法の相違、音声の相違に分けられる。

島に移植された言語は、島で特異なものに変化するという考えは誤りであり、大陸でも同時に言語が変化している。
大陸で変わらないものが島で変化する事もあるし、
島では変わらないものが、大陸で変化する事もある。
英語とドイツ語の例はこれをよく表している。

これらの相違を生み出すものは、しばしば空間的な要因であるとさるが、類縁関係にあるこの二つの言語に作用するものは時間のみである。
変化には時の流れが必要である。
空間の軸だけで、相違を見比べても、変化はたどる事が出来ない。
この現象を観察するには、時間と言うもう一つの軸が必要である。
この二つの軸、主に時間軸、によって完全に捉える事が出来る。
(天候や山など、地理的な環境の相違によって生み出される言語の相違に関しては、未だ曖昧な部分が多いのでここでは扱わない。)

原型が、時間によってどのように変化するかと言う予測をする事は出来ない。
しかし、時間のみによることは確かである。
言語の相違を、地理的な一定の単位によって観察する事は出来ない。

言語の進化という概念がある。
この進化のしかたが、特別な場合、それが、地理的な分化である。
地理的な分化は、この進化の中に組み込まれている。
この特別な例を見る前に、一般的な例、地理的に連続した中での進化を見るべきである。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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地理的に連続した中での進化。
まず、言語的な地理モデルについて考える。
ある時代に、ある陸続きの地域である固有言語が話されている。
例えば、紀元250年頃のガリアでは、ラテン語に占められていた。

確実な事実のひとつ。ある時間が経てば、言語は必ず変容する
これは、絶対的で不可避な原理である。
戦争やさまざまな民族の危機は、その推移を早める事は出来ても、止める事は出来ない。
文語だけを観察している限り、この連続した推移を捉える事は難しい。
文語(表記体系)は一度確立されると維持され、文語は決して、口語を表さない。
今は、この生きた言語に関して述べる。

ふたつめの確実な事実。言語のかたちが領域内で同じように変わるわけではない
つまり、時間によって、地方ごとに変化する。
文語はその上に、まんべんなく重ねられる産物である。

無数の方言を生む原因は何なのか。
ひとつが、繰り返される刷新(innovation)の連続である。
形態(活用)や発音、など、大小さまざまな要素の刷新がある。
もうひとつが、刷新一つずつに、範囲が存在すること。
刷新が領域全体に起こる事は稀で、これは方言を生む原因にはならない。
刷新の範囲が限られ、その範囲が一つずつ異なるという場合が、ほとんどである。これが方言の違いに関する核心であると言える。
この刷新の範囲を前もって決める事は出来ず、ただ、起こった後に確認する事しか出来ない。
地図上には複雑に重なり合った刷新の層が出来る。

フランスの文献学者ポール・メイエ(Marie-Paul-Hyacinthe Meyer)が、「方言の諸特徴は存在するが、方言は存在しない」と言っている。
諸要素の刷新には範囲が存在するが、方言には存在しない。
方言が、明確な境界によって線引きさる事はない。
ある地点で言語を習得した人が、領域の端から、他方の端へと移動してゆくときに、途中ではわずかな要素の違いに気づくだけだろう。
しかし、いつの間にか、理解できない言語の地域に入ってしまっているのだ。

多くの場合、領域の両端は、決して分かりあえない言語であっても、
任意の地点では、その周辺の言語を理解する事が出来る、という状態になっている。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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言語地理学(linguistic geography)という分野では、方言の諸要素の刷新を地図上に書き込むと言う試みがなされた。
ジリエロンの『フランスの言語地図』や、ウィンケルの『ドイツ語の言語地図』などである。

これは、一つの地図ではなく、何枚もの地図を合わせてものである。
まず物理的に、国境よりも細かい分割が必要で、全ての記述すべきものを一枚に書く事が出来ない。
さらに、諸要素ごとに境界が異なる事である。
一つの語彙に関して調べるにも、各地の協力者と、かなりの大規模で組織的な調査が必要である。

調べられた要素の、諸特徴の境界線を等言語線(独 lignes isoglosses)、等言語の線(独 lignes d'isoglosses)という。
(シュミットの提唱では、等語線 isogloss
これは、線を境に異なる特徴を有しているという意味で、言語の細部が異なるだけで、言語の境界線ではない。
誤解を防ぐ為に「等言語素(独 isoglossematiques)」という呼び名を提唱したい。
これらは境界線を表す他に、面も示唆する。
諸要素のいくつかの等言語線は、似たような経路を通るだろう。それらに囲まれた範囲が、私たちが普段認識しているような「方言」となる。
実際には、きれいに何本もの線が重なる事はあり得ない。

一つの要素の等言語線で方言を決めたとしても、他の等言語線がその範囲を二分、三分する事がある。
方言の範囲が無限に細かくなってゆくか、要素の違いを受け入れ、単位のまとまりが維持出来なくなるかである。
方言の存在を定義する為には、極端な考えを受け入れなければならない。
方言となる条件を、一つ以上の特徴が他と異なること、と決める。
あるいは、全ての要素を考慮する為に、ある共同体のただ一点のみに限定し、一点で全体を語ること。
方言の単位の、まとまりを維持するために、方言は村ごとに語らなければならない、小集落ごとに語らなければならないと、さまざまな主張がある。
これらは、人々が定住しているという前提で語っている事である。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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長い間人々が定住してきた地域を考えるならば、もっと大きな言語というカテゴリーでも、方言と同様に語ることが出来る。

まず、一連の言語に引かれる等言語素の境界が存在する。
例えばインド・ヨーロッパ語族では、、西部の言語(ギリシャ語、ラテン語、ケルト語、ゲルマン語)の硬音のkは、東部の(スラヴ語、イラン語、インド語派)では歯擦音sとなる。
これは遥か昔のも前の出来事で、かつてひとつだった印欧語が、この要素によって二つに別れたとされている。
それ以上細かい分化はもっと最近に起こったことである。

そして、本来的に、言語の境界が存在しないことである。
人間の移動がなければ、諸要素の境界線はあっても、言語の境界は存在しない。
不可分なA言語とB言語があり、その間がグレーゾーンとして、過渡的なものであるという認識は間違っている。
全てが過渡的である。
5a0cfe59.jpeg(管理人のイメージ)

しかし実際には、境界を生み出すものがある。それが人間の移動である。
ゲルマン語、スラヴ語、イラン語、ゲルマン語、イタリック語、ギリシャ語は、鎖のようにお互いを結びつけることが出来る。
しかし、そのほかに比べて、スラブ語とゲルマン語の類縁性は弱い。
だからといって、スラヴ語とゲルマン語の過渡的な固有言語が存在しなかったと考えるのは誤りである。
その地域の方言が、失われてしまったと考えるべきである。
その原因が、両民族の移動である。
陸続きのある地域の両端に住む人々が、互いに中央に移住すれば、境界ができる。
そして過渡的な方言が無くなってしまう。

文語や公用語もまた、方言を弱くし言語の境界を著しくする原因でもある。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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