前回からの続きで、言語の不自由の要因として、時間をつけくわえるべきである。
言語の自由を奪っているものは、前の世代から世代への連続であると言える。
時間は、言語の恣意性、選択の自由を無効化する。
今ある言語の根拠は、ほとんどが時間である。前の世代がそう言っていたから。
記号が自由ではないということは、記号の中に時間的要因があり、記号が連続していることの表われである。
加えて時間は、言語に変化を与える。
一見矛盾する言語の不変性と可変性は、ひとつの要因、つまり時間によるものである。
もしも10年ごとに言語が新しいものに作られていたら、つまり、10年毎に断絶があるのならば、言語の不変性や可変性に対してこのような考察は不要であろう。
すべては、連続するということに起因する。
言語の変化は、第一部でも述べてきたものであるが、注意すべきことがある。
言語の変化とは、ひとつの言語の音声が別の音声へ、ひとつの言語の概念が別の概念へと変化するのではない。
ガリア地方のラテン語の変化、necare(殺す)→necare(溺れる)
古典ドイツ語から現代語への変化、Dritteil(1/3)→Drittel(1/3)
先史アングロサクソン語から現代語への変化、fôt(足)、fôti(足の複数形)→fôt(足)、fêt(足の複数形)
これら3つに共通することは、シニフィアンとシニフィエの関係が変化したことである。
記号の恣意性による自由は、このような形で現れる。
言語は、一度、人々の間に流通すると、もう統制をすることは不可能である。同じことは、表記や手話にも言える。
時間の連続性は、時間上の変化と関係する。
言語活動から発話を取り除くと、そこには純粋に心的な言語だけが残る。
心的な言語、概念と記号の結びつきは、共同体の中に存在して初めて機能する。
この2つの定義から、共同体が存在し、互いに関係をもたないかぎり、言語は実現しない。
この時、言語の恣意性による自由を、妨げるものは何も無い。共同体は、論理的にだけ考える訳ではない。
ここに、時間の要素が組み込まれる。言語と共同体と時間の関係である。
語る共同体を無視した、時間と言語だけの関係では、外的な変化は生まれないだろう。
この三者の関係から、言語の自由は奪われる。
時間が関わることによって、無限の過去からの干渉があるからである。
連続性には、価値の移動が内在する。私たちの知っているものは全て、時間とともに変化する。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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