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言語の学問の大きな岐路について、まず、言語発話の科学があるとした。
そして今は、もうひとつの岐路、共時的事象通時的事象がある。
 
付け加えるべきこととして、まず、通時的事象は発話に生じる。個人の変化が、集団的に認められる場合、はじめて言語の領域となる。
変化は、発話から始まる。したがって、変化もしくは進化は、言語学の主要な研究対象とはならない。
変化や進化が生じている間は、限りなく個人的な行為の問題であり、それらが、すでに発話と切り離されている、言語の領域に混ざることは無い。
 
科学として、言語学が理論的、合理的な学問である為の形式は何か。
まず文献学と文学と言語学が全く関係ないと述べなければならない。言語学も文学作品を扱うが、それと文学は異なるものであるし、言語学と文献学は原理的に異なる。
 
言語学の純粋な枠組みがあるとして、その内部を区分するものは何だろうか。
学問領域全体に、ひとつの論理的な枠組を適用するのは困難である。
言語学の論理的な区分は、観察出来るものではない。つくるものである。
例えば共時的事象として、12世紀のフランス語、20世紀の日本語、4世紀のギリシャ語、20世紀のフランス語の全貌はどれも、本質的に類似している。
一方で、通時的事象として、13世紀から20世紀に起こった、フランス語の変化とマレー語の変化は類似している。
一人の学者がさまざまな共時的現象を比較すること、あるいはさまざまな通時的事象を研究することはとても自然なことである。しかし、多くの言語を知ることはなかなか難しい。
そして、この2種の事象は本質的に全く似ても似つかない。
 
重要なこと。
設定した論理的区分において比較される複数の事象は、一般化される。12世紀のフランス語と20世紀の日本語の抽象的な共通点を認めることが出来る。枠組みの中の事象を整理分類することで科学ができる。
 
上記の区分を言い換えることが出来る。
集団的なひとりひとりの意識、集合的意識の中に保存されているシステムの、項と項の論理的、心理学的関係を扱う静態言語学(仏 linguistique statique)
項から項へ変化、継起と置き換えを扱う進化的言語学。項の関係がシステムを成すことは無い。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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この章の最後に、3つの考察を付け加えておく。
1、共時的事象と通時的事象の相違点と類似点から考えられる、排他と同一視の誤りについて。
この2つはの複雑な関係については、まで述べてきた通りである。互いに互いを否定し合うと考えることも、この2種類の事実を混同することも、間違いである。
一見、共時的な法則は、通時的な法則から見ると不合理なものに思われることがある。両者の関係はとても複雑で、今までの歴史言語学者は、その区別を避けて、通時的なものにだけ目を向けるようになった。
例えば、フランス語の分詞は、形容詞のように、修飾する名詞との性と数の一致が起こる。しかし、特定の語と連続すると変わらないのである。それは起源となるラテン語の態の相違に関係する。(これに関する記述に対しては、他の著作でも議論があるようなので非常に曖昧な書き方にしておく。)
一方、共時的な事実と通時的な事実はとてもよく似通っているため、両者を区別する必要がないということもある。
例えば、ラテン語の「作る」'facio'と「調製する」'conficio'について。主音でない短母音のaは、iに変化すると言える。重要なのは、'facio'の'a'が'i'に変化するのではない、ということだ。従って、以下の4項が必要になる。
 facio ⇔ confacio
  ↓     ↓
 facio ⇔ conficio
結局、同じことを言っているのだと言えるだろう。これが共時的事実と通時的事実の対応である。
 
2、通時的事象と共時的事象の関係。
共時的事象の、通時的事象に対する依存と独立を考えるとき、実物の物体としての通時的事象の、平面に投影されるものとしての共時的事象という考え方が便利である。
ものと影が別々のものでなければ、数学や光学の部門は存在しないだろうし、実際に両者は独立している。
投影としての共時的事象は、通時的事象とは別のものであるし、通時的事象の横にそれ自体として存在している。
物体を調べても、投影の概念が持てないのと同様に、通時的事象を研究しても、共時的事象について知ることは出来ない。
あるいは、植物の茎に似ている。
植物の茎を水平に切った断面図は、垂直に切ったときに見える垂直の繊維の束の、別の見方でしかない。互いに直交した関係図が描ける。
水平な断面の様相は、垂直な断面の繊維により決定されるが、互いに独立している。隣り合うものとの、束と言う関係を築いているのは、水平な断面図だけである。
人は常に、共時的な事象の中で話をする。主観は共時的なものしか認識出来ない。通時的事象を考えるのは言語学者だけである。
 
3、通時的な言語学と共時的な言語学について。
光学的な考えをするのならば、物体としての通時的事象についての研究は正当である。それはより細かい視点を区分することが出来る。
静的な共時的事象は、主体にも学者にも興味深いものである。
静的な視点は、語る集団に関するものと文法に関するものの2つに分かれる。語る集団に関する視点は現実であり、影でも幻でもない。
言語学者が言語の状態(現実)を扱うのならば、この語る集団のとらなければならない。通時的な視点は、学者だけが気にする(語る集団にとって現実ではない)視点なので、それは排除するべきである。
 
以上が、静的な言語学と動的な言語学の分岐点であった。
以降は静的な言語学、静態言語学へと研究を進める。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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第6章?、静態言語学
 
一般言語学の範疇の多くが、静態言語学に関するものである。
ある法則が、静態言語学に属するものなのか、静態言語学と歴史言語学の両方に属するものなのかと言う判断は、なかなか難しい。
両者の対象はかなり異なっているが、本質的に比較することは出来ない。
 
静態言語学では、言語の状態全てに共通するものを扱う。項の関係と価値を扱う。
その中には一般文法(仏 grammaire générale)も含まれる。一般文法は、言語の状態を通してのみでしか観察されない、項の関係を説くものである。
歴史言語学は、静態言語学よりも、対象をはるかに簡単に捉える。
項の変化を追うことはさほど難しい主題ではないが、とても魅力的な領域である。
 
静態言語学において、状態の境界を定めることは難しい。次元を持たない点の集まりが線になるように、不明確でなければならない。
言語の特徴に変化が無かった期間を状態と呼び、ひとつの状態には決まった期限は存在しない。
状態は、時点(時間上の点)ではない。しかし、同じ状態の認められる期間内において、複数の時点は共通しているので、時点と期間は似たもの意味している。
時代の捉え方と似ているが、史学の時代は、革命に始まり革命に終わる。物事を変化させようという意図が絡んでくる。
言語学の状態には、そのような概念は無く、偶然に始まり偶然に終わる。
 
期間があることで状態はとても複雑なものになるが、それ以外の定義は難しい。
数学でも微細な数値を無視するように、ものごとの説明には単純化が必要である。
 
加えて状態には地理的な境界がある。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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まず、静態言語学の単位の問題があるが、これは、語という、曖昧でかつ誰もが知っている単位を使用する。
その言語の使用者は自然に、語を認識することが出来る。今はこれを利用し、単位について深く踏み込まないことにする。
語はシステムの項である。語は決して独立した存在ではない。語の価値は、近隣のその他の語との関係性のみによって決定する。
では語の関係性にはどのようなものがあるか。
 
1、連辞的配列(仏 coordination syntagmetique)、連辞関係(仏 rapports syntagmatique)
複数の語が、時間軸上で順になって表れ、何かしらの関係を築いていること。関係の広がりは、時間軸、前後の一方向だけである。
 contre→tous(に対して→全て)
あるいは以下の例では、部分→部分と、部分→全体の、2つの関係が区別される。
 contre→marche(背面→行進)
 
 contre     (背面)
  ↓       ↓
 contremarche (背面行進)
 
2、連合的関係(仏 coordination associatifs)、連合関係(仏 rapports associatifs)
これは語が喚起する概念の関係を表す。語と語の心理上の連合によるもので、時の流れや順序の無い星座のような関係図を描く。
シニフィアンとシニフィエの一部が、共通するものを持っている連合。
 enseignement(教育)
 enseigner(教える)
 enseignons(教える、一人称複数型)
 enseigne(教える、三人称単数型)...
または、別のシニフィアンとシニフィエの部分が共通している連合。
 enseignement(教育)
 armement(軍事)
 rendement(生産高)...
シニフィエが共通している連合。
 enseignement(教育)
 instruction(教育)
 apprentissage(学習)
 éducation(教育)...
シニフィアンの一部が共通している連合。ドイツ語。
 blau(青い)
 durchbläuen(竿で叩く)
 
この2つの関係についての考察。
1、言語学者は、連辞関係、連合関係のどちらの観点からも議論する。
連辞関係は文脈である。はじまりがあり、終わりがある。
連合関係は意識である。はじまりもなく、終わりもない。
2、文を成すものは項と項の連辞関係である。
文は発話に属するものであるが、そうなると、今までの議論は言語と発話とを混同した不適切なものであるのかという反論が生じる。
例にも出したように、熟語にも連辞関係が生じる。連辞は言語と発話両方に生じると言える。
3、連合関係は連辞関係の基盤となる。
もしもenseigne-ment(教育)が2語として数えられるのならば、連合関係を手繰って、arme-ment(軍事)も2語と認定されなければならない。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
フェルディナン・ド・ソシュール著 小林英夫訳 『一般言語学講義』 岩波書店 1972

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人が語の構造を説明しようとすると、連辞関係を思いつくことが多い。
始めから終わりまで並べられた、複数の語の関係性である。文を形成し、発話に属する。
連合関係は、発話以外の場で、記憶の中に作られるさまざまなグループである。グループは多種多様だが、それらは全て、連合関係に分類される。
連辞関係で括られるグループは現実だが、連合関係によるグループは頭の中にあるもので、仮想である。
 
言語は、この連辞関係と連合関係の両方の領域で機能することが求められる。この2つの関係は互いに還元で来ない。
システムの中で、発話の連鎖に含まれる1つの項は、前後の項との連辞関係に加えて、連合関係にある他の項を連想させる。
 
連辞関係と連合関係において、語という単語が示す対象が異なると言える。
項と言うのが良いだろう。
しかしながら、項も、決して、明確な分節があるわけではない。システムを観察する上で、小さい単位である項から考察してゆく方法はふさわしくない。項は絶対ではない。
システムの観察は全体から始めなければならない。全体が、個別の項と項の関係へと、分解されてゆくのである。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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