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セム系の諸言語の表記体系は完全ではなかった。
アブジャド(08/07)と呼ばれる子音だけ表記する方法。)
その不完全な表記を参考に、ギリシャ人はアルファベットを創った。
 
アルファベット(子音と母音を別々に表記する文字体系)を創った全ての人々は、一続きの発声を一様な節に分割した。
節は、その区域の最初から最後までが、同じ音である、似通った音であると言う認識による区分である。
発話をひとつひとつの切片の連続として捉え、鎖の輪のように捉えた。
この切片には時間の要素は無く、発話時間が長いものも、短いものも、ただそれらが一様に似通っているいう事だけで一文字という単位を与えた。
もちろん、音節(子音+母音、子音+母音+子音)という単位で分析が止まってしまった人々も多くいる。
文字表記に必要なのは、聴覚印象であり、発声のメカニズムではない。
 
音韻論(仏 phonologie)学者は、文字と言う一つの単位をもっている音声が、実際にはどのように調音されているかに注目した。
音韻論(仏 phonologie)は、文字によって分節があたえられた音声を、調音の連鎖として捉え直す。
しかし、このとき聴覚の連鎖、つまり文字や音節、を出発点とせざるを得ない。一連の調音の連鎖に句切れを入れるものが、それしか無いからである。
聴覚印象は、調音の連鎖の単位(音素)がない限り、分析不可能である。
 
音素は調音の一定の単位であり、かつ聴覚印象の鎖の切片であり、抽象的概念の一種類として、時間外で語られる。
時間を無視し、弁別的な素性だけに注目して、一連の発話の't'という種を括る事が出来る。
音楽作品を抽象的に語る事は出来ないが、ドやレという切片を設定すれば、あらゆる曲中の「ド」を一括りにし、時間外での分析が可能になる。
 
音韻論(仏 phonologie)の主な仕事は、音素の無限の多様性を示す事である。
その出発点として、音素の分類、分析は欠かせない。
この時考慮すべきは以下の4つの要素である。
1、呼気。あらゆる音素に必要で、義務的な要素。分類の項目としては不適切。
2、。声門で作られる喉頭原音。声帯振動。音素によって、一様に、あったり無かったりする、選択的な要素。
3、鼻腔の開き。聴覚的には鼻音性。強弱のみの性質で、その他の調音は不可能。音素ごとの選択的な要素。
4、口腔の調音。常に調音に影響を与えているという点で義務的。多様で音素分類の基盤となる。
 
口腔の調音をおもに見てゆくと、口腔の開き具合で音素を分類出来る事がわかる。
一般的に開口度と言い、6段階に分けられる。
開口と言っても、開放や閉鎖が作られる場所は、唇や軟口蓋など様々である。
(以下、表は割愛)
 
開口度0(完全な閉鎖)、閉鎖音
pとbの違いは喉頭原音の有無だけであり、bとmの違いは、mにおいて鼻腔が開いているだけである。
鼻音無声閉鎖音は、既知の言語には見られない。
 
開口度1、摩擦音あるいはせばめ音
f、s、v、zのような調音器官が部分的にふれあっており、そのごくわずかの隙間を空気が通過する。
鼻音無声摩擦音あるいは鼻音無声せばめ音は、おそらく存在しない。
 
開口度2、流音
rやlの開口度は高く、通常有声である。鼻音はまれ。
しかし無声のlも有名で、フランス語でのpの直後のlがそれで、強勢のlである。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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開口度3、狭母音
この段階から母音に入るが、開口度の視点には、子音母音の区別は必要ない。
i、u、üは有声である。普通は有声音と、鼻音有声音だけである。
無声のi、u、üも存在するが、他の表記が必要である。
'hi, hu'は、無声i、uと、有声のi、uを区別する為の方法でしかない。
母音無声音はなし。
 
開口度4、半狭母音と半広母音
e、o、öなどである。鼻音有声音にはフランス語で'in, on, un'と表記される鼻母音がある。
無声の'he, ho'もあるだろう。
母音無声音はなし。
 
開口度5、広母音
有声音はaだけである。鼻母音もある。フランス語の'an'。
母音無声音はなし。
 
以上のような開口度による5段階に加えて、±声と±鼻音の[- -][- +][+ -][+ +]の4つ組み合わせを持った分類は優れている。
全ての音を口腔による調音(開口度)に還元することで、その他の要素は、それに変化を加えるだけである。
開口度には以下の特徴がある。
まず、開口度が低い程、口腔で作り出される音が大きい。
そして、開口度が低い程、押し殺された聞き取りにくい音声になる。
加えて、子音と母音を区別する境界が存在しない。
開口度が高くなる程、歯や舌など、その他の要素による制限が緩くなり、喉頭原音による調音に頼らざるを得ない。
しかしこれは子音と母音を区別しない。
音韻論に関する本では、今まで、子音と母音の区別に重きを置きすぎて混乱を生じさせていた。
 
この、5×4=20個の分類は、いかなる発音であるかを知る為の指標にはなるが、音韻論(仏 phonologie)とは言えない。
音韻論(仏 phonologie)が目指すのは、それ以上は細かく出来ない要素に分解する事であり、無限である。
 
pに関しての音韻論(仏 phonologie)の考察を紹介する。
'apa'という表記を見ると、一般的には、pが最小の単位であると言えるだろう。
'appa'という表記のppは、同じ音声の繰り返しでは無い。一つ目のpは閉鎖を作る閉じた音で、2つ目のpは閉鎖を開放する開いた音である。
この3つのpはどれも違う音声を表しているのである。
慣習的に閉鎖を作る子音を内破、開放する子音を外破と言う。この2つが連続する必要は無い。
'all'のlについても同様の事が指摘出来る。
pとは、抽象的な何かである。
これら、内破と外破の区別を認める文字表記はi-j(y)、u-wしかない。iとuが内破であり、j(y)とwが外破である。
この対立はa以外の全ての音声に存在するが、それを区別する音素は存在しない。
 
しかしそれは何ら問題が無いのである。
フランスの言語学者ポール・パスィー(Paul Passy)らの提唱する国際音標文字は言語学には必要だが、それを日常の文字に使用することは望ましくない。
その思想は極端すぎる。
一番の問題は、字母が多すぎることである。
そして、同音異義語の判断の手がかりであった、綴りの差が無くなくなってしまう。
文字には、習慣によって、抽象的な価値と結びつくのである。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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第2部 言語
(なぜか、第1章という区分がない。)
 
言語(仏 langue)と言語活動(仏 langage)は違う。
言語は言語活動の最も本質的な部分であるが、結局、その一部でしかない。
様々な学問領域にわたる言語活動を無視して、言語だけを語る事は出来ない。けれども言語活動を一括する何かは、まだ分かっていない。
一方で言語は、有機的組織として他から分離できる、有効な単位である。
言語を中心に据え、周辺部として言語活動を整理する事が出来る。
ただしその前に、言語に関しての考察が必要である。
 
私たちは、生まれつきの言語能力を持っているのか、それとも、慣習的に獲得するのか。
言語は、自然現象や本能とは関係のないものである。
まず、言語に関してどこまでが生まつきであるかと言う問題に、言語学は未だ答えていない。
発声器官は、歩く為の脚のように、人間が分節化された言語を話す為に存在するかと言う議論は多くあった。ホイットニーはそれを否定している。
分節化された言語(仏 langue articluée)という考えは重要である。一続きの連続するものを、意味単位へと分割する。
それは、人間が、話すための道具として発声器官を選んだからである。
脳の中では、言語能力は、ただの記号でしかないことを、ブローカが発見した。言語能力と作文能力は、脳の同じ部分で処理されている。
 
ただし、例え言語能力が生まれつきであっても、社会的総体としての言語が不可欠である。
言語活動は必ず個人の中に見られるが、個人は必ず2人居なければ、個人は言語能力を発揮できない。
この2人の個人による発話回路を観察する。
1、まずは内部と外部。内部は発声・聴覚器官を含む個人のテリトリーで、外部は、空気の振動の波としての音である。
2、内部は心理部と身体部に分かれる。発声・調音器官の振動や筋肉の動きなど生理的なものが身体部で、残りは全部心理部である。
3、身体部は受動部と能動部に分かれる。聴覚器官から心理部へ向かう(聴覚イメージを生じる)受動部と、心理部から発声器官へ向かう能動部。
4、心理部は受容部と実践部に分かれる。心理部は重要な、回路の中心であり、言語のイメージ(記号)と言語の概念(意味)が結びつく。
連続する発話では、この回路を繰り返し言語が回り続ける。受け取った聴覚イメージを整理し秩序立てるのが主体(仏 sujet)である。
 
社会的な行為とは、個人の行為の集合であるが、社会のなかの個人は必ず他の個人と連携している。
個人に、社会は成立しない。
 
個人と個人の間に社会的言語があるのか。個人の外部には、空気の振動しか存在しない。
心理部を統率するのは個人である。言語の使用はあくまで個人の行為である。
一方、個人の言語を受容する部分は、社会の個人にほとんど共通するものが形成されている。社会的な言語は、ここに存在する。
一人の個人に中に、社会的総体としての言語が、貯蔵されているのである。それは純粋に心理的で、心の中のものである。
言語は脳の中だけにある。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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言語活動は、2つにわかれる。発話と、言語である。
さらに、以下の2つの区別も必要である。
言語能力を行使する事。この時の道具は言語である。
そして、その道具としての言語の記号システムを、個人が使用する事
 
重要なのは以下の言語の性質である。
1、言語は、対象として言語活動から分離出来る。
言語のイメージと言語の概念が結びつく、心理部の中に存在する言語は、言語能力、発声器官、話者と分離した存在である。
言語能力があっても、言語を学習しなければいけないし、発声器官を痛めても頭の中に言語は存在する。話者が居なくなっても、紙の上には言語の機構が残っている。
2、言語はそれだけで研究対象となる。
3、言語は限りなく心理的なものであるから、均質である。
4、言語は、実在として存在て居る。
筋肉の動きや空気の振動等、様々な要因による発話と違い、言語は、聴覚イメージだけに変換される。
様々な心理的な現象のように、頭の中に確かな現実として存在する。
 
言語は、頭の中に貯蔵されているので、それだけを取り出して研究する事が可能である。
辞書や文法は、それらを取り出した形として適切である。
言語から、不要なものをそぎ落としてゆけば、記号と概念の結びつきに帰着する。
心理学の一分野得ある記号学(仏 sémiologie)の重要な言語現象は、音声言語をはじめ、文字表記、海上記号(モールス信号)、聾唖者の言語(手話)が含まれる。
人間社会のひとつの記号的事象として、研究される。
 
言語の研究は常に個人の発話から出発する。
無限の個人の発話から合意を導きだし、それが言語となる。言語は、個人の発話の後である。
 
言語は、発話機能から生み出されるものなので、それからは分離して語られる。
言語を、言語活動にとって本質的で本源的と捉える事は、その他を、下部として見る事である。
海上記号に対する発信器、曲に対する演奏者、言語に対する音韻論(仏 phonologie)の対象は、副次的なものである。実践は、本質ではない。
音声学(仏 phonologie)は生理学であり、言語学ではない。
 
では音声学(仏 phonétique)はどうか。時間による語形の変化は、本質から切り離してよいのか。
実際には、音声学上の変化なぞ、存在し無いのである。音の置き換えであって、言語システムの変化ではない。
従って、言語は音声とは分離したところで語られる。
言語活動の出発点は言語である。
 
保留点。
発話と言語を簡単に分離する事は出来ない。
文法的な語形の変化は言語であるし、個人的な語順の選択は発話に属する。
 
無限の個人から抜き出した、社会的言語を、また、個人が使用する事に関して問題が生じる。
社会的決まり事と、個人にゆだねられる部分の境界は曖昧で、それは、社会と個人、実践と知識が混ざり合う構文(仏 syntaxe)の中にある。
 
このように、無数の個人的発話無しに言語は生じない。与えられた言語を通してでしか、言語を捉える事は出来ない。
これから、その言語を、与えられた全ての言語に当てはまるように、出来るだけ一般化するのである。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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第2章 言語記号の本質
 
言語記号(仏 signe linguistique)は、主体の中の心的な部分での、概念とイメージの結びつきである。
より心的な概念と、感覚的なモノとしての聴覚イメージ。
 
言語には名称のリストしかない、という考え方は間違っているが、言語を捉える出発点としては正しい。
対象 f5af055c.gif
名称 arbos(ラテン語)
 
対象は、主体と名前の外にある。
名前は、発声によるものとも、頭の中の聴覚イメージとも捉える事が出来る。
一方で、主体の中には、概念としての木と、聴覚イメージとしての"arbos"が存在する。
聴覚イメージは、概念とは異なり、頭の中で発声せずに再生する事が出来る。映像と同じモノ、イメージとして存在しているのである。
 
注意すべき用語をあげておく。
音素(仏 phonème)は、発声行為を意味する用語であるので、言語の説明にこれを用い居るべきではない。
また、音声イメージと聴覚イメージの違いも気をつけなければならない。
記号というものが、聴覚イメージを指すのか、聴覚イメージと概念の結合を指すのか明確には答えられないが、この概念とイメージを区別する事は重要である。
 
重要な原理1。言語記号は恣意的(仏 arbitraire)である。
恣意的とは、個人の自由を意味しているのではなく、記号と概念の結びつきの、根拠の無さを指す。
「しまい」は「姉妹」の概念と関係がない。「うし」は「牛」の概念と関係がない。
同様に、siという音と、「し」という文字表記が結びつく根拠は無い。
記号論にとってこの私意性は重要な前提であり、記号とシンボルを区別する。記号論の対象は、恣意的な記号である。
弁護士徽章のシンボル「天秤」は概念「公正」と深い結びつきがある。
言語は、その概念と聴覚イメージの結びつきが恣意的であるからこそ、継承のみに根拠があり、力によって意図的に変更する事が難しいのである。
 
ここで、「イメージ」と言う表現の考察が必要である。「イメージ」は、常にそれが表現するものと結びついている。
ここではこの言葉を、想像力に働きかけて、何かを呼び起こすものとして考える。
 
恣意性に関して擬音語(仏 onomatopées)の問題がある。
擬音語の内的な結びつきをどう扱えば良いのか。
人々が擬音語を語るとき、かなりの数量の誇張が入る。普通の語と同じように振る舞う、それらの語を、特別に語る事がある。
感嘆詞に関しても、恣意的な結びつきがあるように見えるが、多くのものは、意味をもつ単語が変化したものである。
擬音語と感嘆詞に関しては、付随的と考え、別の場で議論する必要がある。
 
重要な原理2。言語記号は一次元的な広がりをもつ。
鎖のように、口から時間的線状性を保って現れる言語は、それ故に分節を設定する事が出来る。言語に層は無い。
例えば、強勢アクセントは、言語の上に付加されるもの様に考えられるが、実際は、並列する他の要素との関係で成り立つ、同次元の現象である。
聴覚的線状性故に、言語を空間的なかたちとして再現出来るのである。文字は一本の線である。
 
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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