以前述べた第1章への追加をする。第1章と第2章のあいだに入るべき考察である。
言語は全て、個人的な発話の集合から得られる産物である。
しかし、発話は言語から作り出されたもので、言語の無い発話は存在しない。
言語の社会的な認可によって決まる、集団的なものである。
言語は集団に居る個人の一人一人の頭の中に貯蔵されているが、同時に、集団的である。
1+1+1+...+1+1=1
発話は個人のものであり、その場限りのものである。
発話の総体は2つに分かれる。個人が作り出したもの、あるいは文、そして、作り出したものを用いた発話行為。
集団的な発話は存在しない。1+1+1=1+1+1
言語と発話は、区別しなければならない。
言語は社会的な習慣であり、個人を無視した、心理学の領域である。
発話、そして同類に分類すべき発声を含めて、それらは心理物理学の領域である。
2つは異なる領域なので同時にたどる事は出来ない。
隣り合う学問としてかいま見る事は役に立つであろうが、しかし、それ以上の事はしてはいけない。
第2章、記号システムとしての言語(この表題でも良かった)
第2章で指摘したのは以下の2つである。
1、言語記号は恣意的である。
2、言語記号は広がりを持ち、それは一次元の方向に限定される。
シニフィアン(仏 signifiant)とシニフィエ(仏 signifié)の用語があると良いだろう。
記号を構成する要素が、聴覚イメージとしてのシニフィアンと、概念としてのシニフィエである。
上の考察は以下のように書き換える事が出来る。
1、言語においてシニフィアンとシニフィエの結合は完全に恣意的である。
2、言語において、聴覚的な本質により、シニフィアンは時間の中で展開され、時間と同じ特徴をもつ。
a)広がる特徴
b)ただ一次元の方向のみに広がる特徴
以前使用した記号(仏 signe)という言葉は曖昧で不明瞭である。
しかし、シニフィアンとシニフィエの結合を、的確にあらわすのは難しく、適した言葉が存在しない。
記号、項、語など、それらはこの結合の一部分しか示さない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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