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*第2部、第2章と第3章の間に入れるべきもの。
 
第3章、記号の不変性(仏 immutabilité)と可変性(仏 mutabilité)
 
シニフィアンのとシニフィエの関係は恣意的であると述べた。その関係は自由に選択できるし、置き換えも可能である。
しかし、言語を用いる社会では、記号は強要されるものである。個人や共同体が勝手に記号を入れ替えることは出来ない。
自由でありながら選択の余地のないという、矛盾がある。
この原因は何だろうか。
 
まず、言語に関して、遺産であると言う観点がある。
名付けの、シニフィアンとシニフィエの契約の成立は、純粋に、想像上の行為であるり、現実ではない。
言語はいつの時代でも、その前の時代から、完成したものとして引き継がれた遺産である。
そして言語はいつの時代でも、常に歴史的な起源がある。
なぜ言語が自由ではないかという問題は、社会的要因と歴史的要因のバランスである。言語の疑問は他の社会制度の疑問と重なる。
その他の遺産や社会制度と比べてみることは有効であろう。
例えば、法律。法律は変えてはいけなかったことが無い。
それから他の記号システム。それらはしばしば、全体の突然変化が可能である。
 
さて、言語の不自由に関する考察をいくつか述べてゆく。
外国語の習得の困難さを思い出せば、変化の難しさもわかる。
言語活動における意識、無意識の判断の難しさも、その不変性を支持している。
言語外の要因としては、
1、言語は毎日、一日中、個人に使用されていること。
これは民法や儀式などと比べて、変化が制限されている理由である。
言語自身に含まれる性質。
2、言語が大量の記号から成っていること。
言語がアルファベットのように、20個やそこらしかなかったら、それを改革するのは容易であると考えられる。
言語程多くの記号を用いたシステムは、まだ見つかっていない。
3、言語の恣意性。
シニフィアンとシニフィエの結合に根拠が無いということは、一度出来上がってしまうと、そのことに関して議論が出来ないということである。
議論の為の、他と比較する尺度が、そこには無いのである。
4、言語が資料体(corpus)、システムであること。
つまり、言語は1つのシニフィアン、1つのシニフィエの結合の集合ではない。
ひとつのユニットが近隣のユニットと相互作用する、複雑な組織である。
 
言語の劇的な変化は、専門家である文法学者と論理学者の集団以外に、起こすことは出来ない。
 
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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