Alternative usage
慣用法もまた、方言と同じように変化する。
標準英語話者でも、ある人は'different from'というし、その他の人は'different to'という。同じように、'under these circumstances'と言う人も居れば、'in these circumstances'と言う人も居る。'less people'でも'fewer people'でもどちらでも良い。'Shall', 'I were', 'whilst', 'whom'を使う人もいるが、他の人達はほとんど使わない。
これらは言語の変化によるものである。新しい用法は、古い用法を一晩で消し去ったりはしない。同じ意味を表すための複数の選択肢が共存しているのである。実際、数世紀この状態が続くことがあり、'different from'と'different to'の共存は400年前から続いている。
場面の違いで個人の中にもバリエーションが生じる。友達同士で方言で話していても、お店の店員には標準語で改まった形で話しかけるだろう。普段よく使う'I've'や'don't'のような短縮も、公式な場面では'I have'、'do not'を使う。
方言がそうであるように、これらのバリエーションも価値判断の基準となりやすい。
おそらく、より古い形式だとか伝統的だとか公式文書の文法だとか、そういう理由で、1つか2つの形式がよりふさわしいと判断される。
日常的な言葉は、公式な文章と違うだけで、構造や表現が間違っているのではない。この異なるスタイルの言語を状況に合わせて用いることが出来る能力は、言語運用の問題である。
そしてこの敵対する2つの形式が標準語話者の間で広く話されているのであれば、この2つの形式が普及しているということが出来る。永遠に「正しい文法」が刻み込まれた石碑は存在しないのである。
この考えを受け入れがたいと思う人もいるだろう。これは、なんでも良い、と言っているのと同じで、標準なんてものを定める方法が無いのだ。
確かに、慣用法は唯一の規範にはなり得ず、また、楽な方へと流れるものである。外的な権威が必要だ。
文法、辞書、たくさんの慣用指針があるが、それらはなぜ存在するのか?規則を示しているのではないのだろうか?
Authorities; description and prescription rules
'authority'という言葉は、真実と力と関係している。主語としての'authority'は信頼出来る情報を与えてくれる人達で、'authority'と持つ人は、何をすべきで、何をすべきでないのかを教えてくれる。
従って、言語学的な'authority'は、2種類の規則を作り出す。公式の説明書(description)と独裁的な規範(prescription)である。
記述的な規則は単純に、言語学的な正しさのことである。言語が作り出す自らのルールである。
標準英語の三人称単数現在の動詞には'-s'が付くとか、現在は目的語として'who'と'whom'両方が使われるとか、アメリカ南部とスコットランド地方の英語では法助動詞の二重が可能であるとか、ロシア語の名詞は6個の格変化があるとか、標準中国語では'ma'をつければ疑問文になるとかである。
これらのルールは言語が適切に機能するように意図的に作られたものではない。言語の進化の産物であり、使用者も気づかない複雑なメカニズムから導き出されたもので、意図的に操作することは出来ない。
一方、規範的な規則は、言語学的な規定のことである。言語は一般化するべきで、整頓されて、乱れを防がなければならないと言う信念で、個人が考案した規則である。これらの規則は、母語話者が書いた慣用法辞典などに現れる。
多くのものが、18、19世紀の英語文法を拠り所にしている。なぜなら、多くの著者が、英語文法は、すばらしい言語であるラテン語の文法と似ているべきであると、考えているからである。
これらの規則は、教育的な伝統にも用いられる。ラテン語の動詞の不定形は一単語だったので、英語でも、'to'と動詞の間に、副詞などその他の単語を挿入することはしてはいけないとか、ラテン語の文章がそうであったように、英語の文章も前置詞で終わってはいけないとかいう迷信である。
Problems with prescriptive rules
規範的な規則は、それを作った人達の信念を押し付ける。真実ではなく、意見である。
分離不定詞に関する規則も、前置詞の位置に関する規則も、英語文法の現実に基づいていない。推理小説家レイモンド・チャンドラーは、原稿の分離不定詞を編集者が修正する事に立腹し、「私が不定詞を分けたら、神が地獄に落とそうが、分けたままにしろ」と伝えた。
また、規範的な規則は、'they, them, their'の三人称単数の代名詞としての用法を、'They'は複数だという非論理的なことを根拠に非難している。'they'は、'you'と同じように、複数と単数の機能を持つ。'If sombody phones, tell them I'm not.'何世紀も使用されて来た用法なので、英文法はこれを認めなければならない。
論理的とは、整理整頓のことだ。
標準英語の典型である'It's me.'や'John and me saw a good film.'という文章は、どちらの場合も論理的に'me'は主格であるべきという理由で非難される。しかし、'me'と'I'の選択は複雑である。統語論的な環境と形式レベルに依るものであって、単純に、すっきりさせる事は出来ないし、ましてやラテン語の代名詞にも共通して適用されるような規則は無い。
格のシステムは言語ごとに異なっており、そこから逸脱するような、観念的で抽象的な構造など存在しないのだ。多くの言語は、ヨーロッパの主語-述語構造とまったく違う方法で組織されている。また、他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格で、他動詞の主語が異なる格をもつ文法もある。
'John and me saw....'の文章を見て、「動作主は主格」という論理的な立場で'John and I saw....'が正しいと言う事は、「鳥は飛ぶ」からペンギンも飛ぶ、と主張しているようなものだ。
また、規範的な規則はよく歴史に訴える。
英語の'different'はラテン語の'differre'から派生したもので、意味は'to carry away'である。だから、英語の前置詞は'to'ではなく'from'である、と主張する。
しかし、歴史は、正しい使用法も論理も与えてはくれない。このような主張は、現行の文法と語彙をほとんどを変えてしまう。'do'無しの疑問文で、動詞は節の最後に置き、'lady'の意味は、パン屋だ。
言語がどのように機能しているかを理解するために一番適切なのは、現在の言語を観察する事であって、過去の言語ではない。
規範的な規則は、自分自身の慣性に依って発展する。
若い頃に規範的規則を一生懸命勉強した人達は、彼らの地位を示すそれらの知識が価値を減らしてゆく事に落胆するだろう。
スティーブン・ピンカーが著書「言語を生み出す本能(The Language Instinct)」の中で指摘しているように、多くの規範的規則は心理学的にあまりに不自然なので、このように正しい教育を受けて来た人だけが認める事が出来きる。そして'sh'を発音出来ないエブライム人を区別するシボレテ(shibbileth)のように、無学な大衆からエリートを抜き出すのだ。
Ripples on the ocean
学校でしっかり文法を習ったから自分は言語を正しく使っていると思っている人は、文法の出典の膨大な量を見て驚くだろう。そして、学校文法がどんなに小さい範囲のメカニズムであったかに気づくだろう。日常の会話で、話し手は、素早く、苦労も無く、膨大で複雑な文法的操作し、選択し、そしてこれらの複雑な規則の存在にも気づかずに実行している。そのなかには、学校で習った文法などほとんどない。
学校文法は、せいぜい、句読法と、大雑把な文法カテゴリーの区別と、文体的な疑問文と、間違った文法の指摘をするぐらいだ。これは英語の構造の広大な海の、さざなみ程度に過ぎない。
文法的な規範によって、言語が崩れていくのは防止出来るという考えは非現実的である。
言語は、複雑でほとんど知られていないメカニズムと調和して、それ自身で発展する。その発展に影響を与える人はほとんどいない。規範的な規則は少しは慣用を変える事が出来るが、このような宣言は、言語の発展全体の中では対した効果は無い。
そもそも、言語はこのような保護を必要としていない。政治や経済とは違い、言語に悪い変化は無い。太古の昔から「言語が地に落ちた」という言われているが、十分な話者数をもった言語で本当にそうなったものは無い。
しかし、「十分な話者数」の問題がある。
少数派の言語の政治的、経済的機能が、英語のような強力な言語に依って剥奪されている。このような少数派の言語の話者数は減少していく危険があり、実際に消え、言語の死が訪れる。このような言語の使用者が感じる恐怖は、残念ながら、十分に根拠のあるものである。
The desire for standardization
もし、言語のバリエーションと変化に対する反対が、間違った情報で非現実的だとするならば、なぜそれが残っているのだろうか。
一部は、おそらく、明らかな理由に依るものだ。年配の影響力のある人々が、彼らの基準と言語使用を存続させようとし、そして、その他のグループや世代のものになるのを食い止めようとするからだ。
新しい音楽の流行やヘアスタイルののように、間違った言語は既存の権威の否定と反抗を象徴するシンボルとなりうる。
しかし、これが全てではない。規範的な規則は、利益のために、標準化を望む人々の本能を反映している。
全ての人々が他者の言葉を簡単に理解出来れば、社会はもっと効率よくなる。そのために、言語の標準化は欠かせない。そして標準語は、統一、価値の共有、所属意識など、社会の象徴的な重みとなるだろう。
広く使われる書き言葉の標準化は、言語の変化を緩め、数世紀前の文章も難なく読めるようになる。短期的には、世代間での不和が少なくなり、長期的には、共同体の文化継承がしやすくなる。
The price of standardization
残念だが、標準化はかなり高くつく。
一般的に、標準は書き言葉だけにあるので、非標準語話者は、文学を読み、社会を渡ってゆくために、新しい方言を学ばなければならない。
学校のシステムには壁がある。このような手続きは、どんなに地元で活躍出来ても、2つの方言をうまく使いこなせず、書き言葉の文法的慣習を習得出来なかった人達には、事実上、閉ざされている。
この文脈のなかで、文法的正確さは、その人が規則に従い権威を尊敬していると言う、象徴的な価値を示す。
最近の言語教育は、現実的に言語のはたらく仕組みを理解する事を大切にしている。しかし、方言は未だ間違いとされる。
言語の標準化は必然的に、他のバリエーションとともに、その話者の価値をさげる。方言の話者は無学だとか、無知だとか、馬鹿と言われ蔑まれるだろう。このような態度は、大きな損害を与える。
子供達の母語は、個人的社会的アイデンティティーと固く結びつく。そして五歳児の話す言葉も、それがどんな方言であっても、驚く程の知識で構成されている。自動的で無意識の操作で、いまだよく理解されていない複雑で固く組織された言語システムとサブシステムを使いこなしている。
子供達が、学校の授業と社会のなかで、自分は適切な言語を学べなかったのだと、そして言語を教えてくれた両親は、正しい言語を知らない劣った人間であると信じてしまう事は、とても悲しい事である。
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series
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