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この章では、
派生の接辞による、意味成分の発信の方法について、話してきた。
その次は、語が、どのように意味論的に関係しているかを考えた。
しかし語彙と言うものは、常にひと単語で居るわけではない。
動詞句や名詞句など、ふたつの語の組み合わせで出現することもある。

もちろん語彙も大きな語彙の塊となる。
例えば、一つの形態素からなる"often"と、
複数の接辞からなり形態論的に複雑な"repretebly"を例に挙げる。
この二つの単語は"over and over"や"tome after time"の意味を表す、類義語である。
上の表現のような、決まり文句(formulaic phrase)は、
完成された意味の単位として、一つの語彙のように扱われる。
複数の意味成分が混ざり合わさることなく、
分離した語として表現を見ることが出来ることが特徴である。

このような決まり文句は複合語(compound word)であり、
語の結合としての、統語論的語彙ではない。
"tome ater time"の語は分離しているが、文法的には独立していない。
したがって一つの語彙素として、"time"を複数形にしたり、冠詞を加えたりは出来ない。
これらの語は固い組織の中に合成されてしまているので、統語論は中に入れない。
このような複合語は英語には数え切れないほど存在する。

語彙の配列である連語関係(collocation)は結束が固いが、統語論的に修正されたものも多くある。
しかしそれも限界がある。
語の合成から、結合関係へと移動するところに、
語彙(lexis)と統語法(syntax)との間に不確かだが境界線がある。

意味論は、個別の、形態素や語の単位に意味を割り当てるだけではなく、
それらがどのように結びついたのか
それらどのようにお互いに作用しているのかなど、
形態素や語の関係性を考慮している。
意味論は形態論と語彙と統語論の複雑な相互作用である。
とても複雑だが、全ての意味を網羅してはいない。

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意味論は、言語の中の意味の研究である。
言葉が何を意味しているか、という研究である。
これとは別に、語用論(pragmatics)は、
人が、言葉によって何を意味したいのか、
どうやって意味を表現しているのかを研究する分野である。

例えば、以下の文を解読してみる。
the parson may object to it.
"the"とは、定冠詞であり、
限定詞のシステムの中で他の"a"や"this"などの表現と区別している。
"parson"は宗教関係の職の名詞であり、
上位語としての"clergyman"と包摂関係にある。
私たちは英語の文法知識によって
"the parson"が構成要素としてどのような機能を果たしているかがわかる。
"may"が動詞句の、様態を現す要素であることがわかる。
そして、この表現が統語論的に、完成された文である事が言える。
しかし、とある文脈の中で実際の言葉として、
この表現によって何が意味されたのかはわからない。

誰かが会話でこの表現を使用したとしたら、
これはどういう意味だろうか。
この言葉をどのように解釈したら、意味論的基準をもってこの文を解読できるだろうか。

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"the paeson"
この名詞句は、話し手も聞き手も知っている、ある特定の聖職者である。
この句は指示の機能を果たしており、
これを参照(reference)としての情報伝達の働きという。
聞き手もこの参照を承認せねばならず、
もし参照が成立しない場合は、指定を無効にしてしまう。
聞き手は「誰のこと?どの牧師?」と聞き返さなければならない。

語用論的な意味に必要なのはこの、参照である。
話し手は、何かについて話をするとき、命題(porosition)を表現する。
この時、共有された知識の文脈の中に、話し手と聞き手を入力するために、
記号の象徴的慣習を利用する。
話し手は、直接何かを表現するのではなく、
発話行為(illocution)や情報伝達の行為をするために、何かを表現する。
言葉は参照だけでなく、発話の力(illocutionary force)を持っている。
発話によって、話者は何かを意図している。
決断の理由や、講義や、警告などを。
既出の発話に続く文や返事など、
語用論的な可能性は、言語自体が発信しているものではない。
これらは文脈によって推測される。

語用論の一側面として、命題参照がある。
もうひとつは、発話の力だ。
三つ目は、発話媒体行為(perlocutionary effect)である。
話者は、文脈によって推測できるような計画的な意味を表現しているだけではなく、
聞き手にある種の効果をもたらすような、意味も表している。
驚かせたり、喜ばせたり、感動させたり、共感させたりするのである。

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参照や発話の力、発話媒体行為の話をしているとき、
私たちは、意味論的な、言語そのものの意味を扱っているのではなく、
語用論的な、発話行為(speech act)で人々が達成した意味を扱う。
音声学や音韻論、統語論など、
今までは言語の中の関係性について話してきたが、
発話行為に言及するときは、
行為の発生の文脈と、言語が使われた外的な状況との関係性が重要である。

文脈は、ありのままの現実であるだけでなく、
重要だと認識される視点である。
言語の使用者は、ある音声学的特徴を取り除くことで、
音素の重要性として音を区別する。
あまり重要なことだ思えないが、彼らもそう思ってはいないだろう。
使用者は現実の構図を投影している。
同じことが文脈に関しても言える。

人々が同一のつながりを作るとき、
彼らの世界と似ている特徴と、
一般の現実として頭の中に築かれたものとを、言語の特徴と結び付けている。
外の世界ではなく、頭の中にある現実の様式をスキーマ(schema)と言う。
文脈とは、スキーマの構造物である。
語用論の意味の達成は、
記号の言語学的要素と、文脈のスキーマの要素の調和の問題である。

Brezil scored just before the final whistle.
"brazil"と言う単語は、熱帯雨林、アマゾン、コーヒーなどを彷彿とさせるが、
なにより、サッカーチームの優秀さで名高い国である。
このサッカーのスキーマが、"scored"や"final whistle"という表現が参照した全ての可能性を導くだろう。

The parson may object to it.
"it"とは何だろうかと考えたとき、まず教会に関係することが思い浮かぶ。
聖歌隊を新たに呼んだり、教会の募金の使い道などである。
このとき、"the parson"の聖職者と言う役割が重要視され、
その他の特徴は無視される。
牧師のどんな特徴が重要視されるかは、
(愛煙家だったり、独身であったり、大学卒業生だったり…)
すべては、"it"が何を参照しているかによる。
スキーマにおいて関係しているものに集中することによって、
話し手も聞き手も同じ文脈と結びついたとき、参照が成立する。

力の達成についても同様である。
この文は、警告になりうると昨日述べたが、
どのようにそんな影響力が推測されるのだろうか。
ある共同体の人たちは、
世界の成り立ちから、発話行為など社会的行動の慣習的方法まで、
共通の前提を持っている。
これは彼らの社会的集団のメンバーとしての文化的アイデンティティーを定義する。
なので、この相互作用の中にいる人たちは、
警告の発話内行為として働く言葉が、どのような状況にあるかを知っている。

つまり、
状況が話し手のコントロールの及ばないところに所属し、
話し手が傍観者としての役割を果たしていると、聞き手が知っているとき、警告となる。
一方、
話し手が、第一人称に感化されており、
第一人称の代わりに話し手がしゃべっていると、聞き手が知っているとき、脅しとなる。

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The parson may object to it.
この一文だけでは曖昧すぎて分かりにくい。
聞き手は、文脈に関係ないと思われる情報をとりのぞき、
それでも残ったたくさんの可能性を減らさなければならない。
この曖昧さは、語用論の在り方でもある。
話し手と聞き手は意味の交渉(negotiation)をして、
参照の合意、発話内行為の様相を築く。

A: The parson may object to it.
B: Parson? whitch parson?
A: The Reverend Sponer.
B: But he isn't a member. And he dosen't smoke anyway.
A: what's that got to do with the new biycicle shed?
B: I thought you were talking about the smoking ban.  など。

このような交渉で問題点が浮上してくる。
はじめに、これは想像上の、記録された対話として提示されたが、
多くの特徴が記録されていない、ということだ。
例えば、声色や声の高さ、ジェスチャー、表情、視線といった、
パラ言語学(paralinguistics)的特徴である。
これらは文脈と密接に関係しており、何が起こっているかを判断する決定打となる。
記録されたているのは、相互作用の外的な生成物であり、
参加者が経験するような、現実の対話の過程ではない。

ふたつめは、簡単な意味単位から始めたとしても、
もっと複雑なものの考察へと、深めなてゆかなければならない、ということだ。
個別な言葉として発話行為を対象としても、
そんなにきっちりと区別される発話行為は現実に起こらない。
交代で行われる意思疎通と、場の共有において、
意味は、対話の参加者の同意と一緒に、調節される。
主な語用論の問題は、どのように会話が調節されるのかである。
交渉の基本原則は何なのか、
どのように、人々は結合に協力しているのか。
情報伝達をするとき、人はある種の制限に組み込まれている。
それによって一人称の意図と二人称の判断が一致する。
これを協調の原理(cooprative principle)に同意していると言う。

意味論的な語彙の言語の潜在力に、語用論的な現実が与えられることはない。
そうするには、
人々が発話によって意味しているものが、
言語自体と関係があると認めなければならない。
人々が参加する対話は、意見の一致によって終わるだろう。
この時協調は、対立の邪魔をしない。
寧ろ、協調の原理によってのみ、
人は異議申し立てをしたり、対立関係を築くことが出来る。

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