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UGの考えは、言語を、認知t的なものであり、心理学的な現象であるとする。
チョムスキーの興味は、言語のみに収まらず、
人間であることに向けられている。

言語は、認知的な存在であるだけではない。
コミュニケーション、社会コントロールの手段として機能だという主張もあるだろうが、
抽象的な知識となって、頭の中に吸収するためには、
実際の行動として、外の世界を経験しなければならない。


もう一つの言語の捉え方は、
社会的な機能としての捉え方である。
言語とは公共の必要性に見合う、記号システムである。

重要な点は、言語が、遺伝的な才能ではなく、遺伝的な功績であることだ。
人間は、言語を扱う、完全にユニークな存在なのだろうか。
他の種も様々な記号を使ってコミュニケーションを取りコミュニティーを形成しているが、
人間のように、複雑な社会的有機物として機能するようなシステムではない。
言語は、人間と言う種の進化の結果ではなく、
人間コミュニティーの、社会的進化の結果である。

言語学者であるマイケル・ハリデーによると、言語には、
概念化によって現実を支配する、観念化機能(ideational function)と、
私とあなたの間に社会的関係を築く、対人関係の作用(interpersonal function)がある。
このような機能も、言語のシステムとして結びつけることが出来るだろう。
これは、チョムスキーとは異なる意味の、UGの特徴と言える。
このときの設定すべき要素は、社会文化的なものであるだろう。

言語は、人間の知性と、人間の社会との複雑な結びつきがある。
認知とコミュニケーションと関係があり、
抽象的な知識と、実際の行動でもある。
言語という現象は捉えどころが無い。
どうやったら言語を正確に捉え、システマティックに研究できるだろうか。

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言語は、人間の生活、経験と、複雑に深く結びついている為、
その本質を識別するのは難しい。
もし、あなたが木の中に居て、木しか見えないとき、
木を見ようと思ったら、一度、木の外に出なければならない。
言語学の目的は、言語を説明することである。
その説明は、経験そのものと、ある程度の分離が無ければならない。

言語の記号は恣意的であり、
それゆえに、世界を定義するための概念化をすることが出来る。
言語は世界を映し、記録するだけではなく、世界を作るものである。
そして、人間が、積極的(proactive⇔reactive)であることを可能にした。

もちろん、違うコミュニティーの言語は、異なった世界の形を示すだろう。
経験の説明は、文化的しきたりと、言語の習慣の問題である。

しかし一方で、
現実の抽象化という人間特有の思考は、私たちの、外の世界の理解に制限を加える。
私たちの概念カテゴリーが、どんなに精巧であっても、
世界の全てを捉えることはできない。
かといって、抽象化を止める事は出来ずに、私たちは永遠に、
変わり続ける世界に、カテゴリーを適合させてゆくのだ。
現実を、カテゴリー再構築の絶え間ない工程に通し、選ぶべき説明を探している。
この終わりの無い調節可能な抽象化と、
物事の解釈の違う方法を出現することを可能にする潜在能力は、
言語のそのものに、既に備わっている。

知的な疑問、より秩序だった説明の発展の道具となる、
言語の抽象化能力は、学問の分野で浸透している。
私たちはこのような分野を、文化として考えることが出来る。
特定の、学者の集まりでの、伝統的な話し方、考え方であると。
他のどんな文化でも、実際の経験から抽象を引き出す。
言語学もそのような分野のひとつだ。
言語学は、言語の抽象化能力を、言語をカテゴライズし、説明する為に使用する。

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認知とコミュニケーションとしての言語は複雑すぎる。
言語学の目的は、この複雑なものを抽象化することで、
重要な意味があるだろうその複雑なものを、説明することである。

抽象化は、言語学的描写のモデルを構成する工程の一つである。
モデルは、現実から離れて居なければならず、
実際のところ、現実にほとんど似ていない。
言語学だけでない。
物理学の波や粒子のモデルは、現実の経験とはまったく関係がない。
けれどもそれは問題にはならない。
逆に、存在しないものを明らかにすると言う点で、そのモデルには意味がある。

すなわち、存在しない特徴を明らかにする言語学のモデルをつくるのだ。
モデルは、現実の理想化されたバージョンである。
本質と思われる特徴を優先するため、二次的だと思われる特徴は取り除かれる。

案内図のようなものだ。それは現実ではない。
混乱を避けるために、詳細を省いた路線図は、現実とはまったく似ておらず、
駅との間隔もまったく当てにならない。
このような案内図は、地上の道を歩くのにはまったく使い物にならにならないが、
現実の複雑さをまったく反映していないと、文句を言われることはない。
地下鉄での移動のための案内図であり、
そのために必要の無いものは、書いていない。
map.jpg
言語の複雑な領域モデルも然りである。
案内図のように、すべてのモデルは簡略化され特定の分野にて力を発揮する。
他のものを隠す事によって、特定のもの示すようにデザインされている。
全目的のモデルは存在しない。

経験を説明するためにデザインされたのであって、
経験との一致を期待するするべきではない。
真実をすべて捉えようとしたら、それはモデルではなく、ただの地形図だ。

地図作成も言語学も、以下のことを知ることが大切である。
どの縮尺を使うのか、
何を重要とするのか、
どこに、理想化された抽象と、現実の個別なものの線を引くか、を。

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言語は、人々の相互作用の手段として、社会的な存在である。
言語によって私たちは、
私的な経験と他の人たちのとの情報伝達を、
公に表現し、
他の人と合意し、
他の人との関係を調節することが出来る。

外国語を学ぶ場合、
異なった社会背景の言語を使うための、一般的に合意された方法がなければならない。
(異文化交流のマナーが、言葉においても存在するわけですね。)
その点において、言語を学ぶことは、社会に服従することである。

同様に言語は、
社会の服従しない、自分語りの手段でもある。
常に、個別の戦略のための空間が存在している。
例えば、フランス語、スワヒリ語、中国語では、話者が単語を結合して使うことが出来る。
彼らは、記号の潜在能力を利用して、その言語での特異な表現を創造している。
個別の表現はぎこちないが、
彼らは、違う能力を、違う場面で、違う目的で利用したのだ。

個人の言語の使用パターンは、指紋と同じで、生来、特徴的である。
話し方も、音声で識別できるだろうが、
音響学上、けっして他のものとは似ていない。

言語学の文法の知識と機能は、
実際の行動に注目すれば、とても個別的で種類がある。
したがって、社会のコントロールは、個別の創造の必要条件であろう。
現実に近づけは近づくほど、
一般的な抽象が見えなくなる程に、多くの差異に気がつく。
したがって、言語学的尺度に沿って、限界点の設置を考えた方が便利だ。

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前回述べたような仕事は、フェルディナン・ド・ソシュールによって成されている。
近代言語学の基礎を築いたとして有名な有名な、
スイスの学者である。
彼は、言語を二つに分けて考えていた。
共有された社会的記号、抽象的システムであるラング(langue)と、
残された、個人の会話の個別な現実であるパロール(palor)である。
19世紀初頭の有名な講義で、彼は、
言語学はラングを研究対象とすべきであると提唱した。
彼曰く、ラングは知識の集合体であり、
その言語コミュニティーの皆が持っている公共の参考書である。

抽象システム(ラング)と実際の発話(パロール)の区別は、
種類が多く雑多な個別の現実の会話を、パロール言語学という分野に収めることで
研究対象として捉えやすくした。
そして、ラングの概念で言語の中枢を捉え、言語の一面として定義することが出来た。
パロールは、偶然の産物である。
表面上の振る舞いであり、知識の反映である。
ラングは、言語学の便利な規則であり、それ自体が、言語の基本的な規則である。

ソシュールの提唱の問題点がいくつかある。
一つは、言語固有の不安定さにより、ラングの概念が消えることだ。
言語は使用者の必要に応じて、常に変化している。
言語は状態ではなく、過程である。
彼もその点には気づいていた。

ソシュールは、
通時的(diachronic)様相である言語の変化を説明するため、
伝統的な歴史言語学を学んでいた。
そこで彼は、共時的(synchronic)状態での、
特定の時点の断面図としてのラングを思いついた。

注意すべき点は、共時性・同時性と、安定性の取り違えである。
共時的な断面図は、いつだって流動である。
言語は、時がたてば変化するのではなく、いつでも変化しているのだ。
同じ時代でも、異なる世代は異なる記述をする。
どれだけ短い時間でも、
言語の多様性が限られていても、
言語の使用者のコミュニティーによって調節されたバリエーションが存在する。

時を経た、通時的変化はシンプルで必然であり、
いつも、共時的バリエーションの結果なのだ。
通時的様相と、共時的状態の関係を、ソシュールはチェスに例えている。
共時的断面図はチェスの局面である。
ゲームの通時的関係(前の手、次の一手の動き)を無視して、
ボードの上の駒の配置について研究することが出来る。
逆に、ゲームの局面を考えずに、一つの駒の動きの傾向を見ることも出来る。

ゲームは一手一手、止まるけれども、言語は継続して区切りが無い。
それを停止させるのが言語学である。

通時的、共時的側面は、現実に明瞭な特徴ではないという主張も在り得る。
しかし、それは、決してその視点を無効化することはない。
それは、すべての言語モデルについても当てはまる。
もし、バリエーションと変化を両方捉えようとしたら、
違うやり方で理想化の線を引かなければならないが、理想化は無くならない。
そして結果として、出来上がったモデルは、
バリエーションを捉える上で必要な枠組みを支える、言語の安定性を明らかに出来ないだろう。

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