ソシュールの、ラングとパロールの関係と比較されるのが、
ノーム・チョムスキーの提唱である。
彼も言語を2つに区別して考えた。
言語の使用者が、抽象的なシステムとして持っている、
自分達の言語の知識としての言語能力(competence)と、
知識による実際の行動としての言語運用(performance)である。
言語運用(performance)は偶然的であり、周囲の状況に依存している。
私たちは知識だけにのっとって行動しているわけではない。
私たちがやっている事と、私たちが知っていることは同等ではない。
実際の言語行動は、言語の知識以外の、周囲の要因で決定する。
その点で、言語能力(competence)と言語運用(performance)は、どうやっても、一致しないものである。
チョムスキーの分類は、
知識と行為の区別、言語的視野の区別の2つの点で、
ソシュールの分類と似通っている。
だが重要な相違点がある。
チョムスキーの分類には、その重要性についてためらいが無い。
言語能力(competence)とは、言語学的研究の役に立つ規則、便利な構造ではなく、
中枢を占める規則であり、根拠の確かな構造である。
言語能力(competence)は、本質であり、根源である。
言語運用(performance)はその残りの部分であり、皮相的なものである。
ソシュールのラングは、社会に共有された、共通の知識である。
チョムスキーの言語能力(competence)は、個人個人才能であり、心理学的現象であるとしている。
人間には、ある一つの言語ではなく、どんな言語にも当てはまる能力を、
獲得するプログラムが先天的に備わっている。
コミュニティー構成員によって定義されるラングは、
何が言語らに差異を生じさせているのか、
何がある言語を特徴づけているのか、に注目が行く。
一方、人類の構成員によって定義される言語能力(competence)は、
何が言語らに類似を生じさせているのか、
何が言語を、人類に特異なものとしているのかに、注目が行く。
チョムスキーは、人類の精神の普遍性に関するものとして言語学を定義しており、
認知心理学の一分野として考えている。
言語能力(competence)は、
コミュニケーションにおいて、言語の形式がどのように機能しているのかを考慮せずに
言語の普遍性の証拠として、言語の形式に注目する。
この点において彼の主張は形式論的である。
チョムスキーの言語定義は、
抽象化すればするほど、実際の言語使用との関連がなくなってゆく。
本当に抽象的な知識だとすれば、
それは実際の行動の根拠にならず、
意識的に理解も出来ず、存在を証明することも出来ない。
しかし、周囲に目を向けるほど、意味のある一般化の方法がなくなってゆく。
唯一、抽象的知識を証明できるとすれば、
それは言語使用者の代表としての言語学者の直感である。
しかし、言語学者が、典型的で、信頼できる資料提供者であるという理由はない。
この理想化のジレンマは、常に私たちにつきまとう。
チョムスキーの提唱の矛盾の指摘として、以下のようなものがある。
言語能力は、
人間の知識の範囲を定義し、UG(04/11)の要素を決定する、
組織だった規則の抽象的な集団である。
言語で一番重要なもの、人間の精神の才能、種の先天的特異性など、の証拠になる。
つまり、言語の中心である言語能力(competence)は、それ自体が中心ではない。
チョムスキーの言語学は、文法についての学問である。
しかも、文の構成要素の構造的関係、いわゆる統語論(syntax)についての、
文法を研究する学問のなかでも、特定の範囲である。
チョムスキーの言語に関する記述は、非常に幅広く広範囲にわたっている。
しかし当然ながら、言語それ自体に関しては、非常に狭い。
チョムスキーの提唱は、実際の経験とか遠く離れた、抽象的な説明であり、
驚くことは何も無いが、欠けているものもある。
彼の言う、言語学の知識というものがあまりにも狭すぎて、
文法の知識である統語論のことしか意味していない、というものがある。
言語を知ると言うことは、形だけでなく、
それがどのように機能するかを知ることである。
形式や文構成要素としてでなく、
複雑な統語論との相互作用なす意味の単位としての語を、知るべきである。
その結果、
言語の形式的なシステムは、現実の意味の記号化としての語と、共同で発展してゆく。
この点から、言語学とは本質的に、
どうやって言語は、意味をなしているのか、
どうやって機能上の情報を与えられているのか、という意味論(semantics)の研究をするものである。
チョムスキーの形式文法は、
統語論のとある特徴と、普遍的で先天的な人間の認知方法との一致を求めている。
反対に、機能文法の点から考えることが出来る。
言語が、どれほど環境によって左右されているか、
どのように社会的使用による変形があるか、
どれほど与えられた機能を反映しているか、を考える分野である。
言語の知識について問題なのは、
言語が何を意味しているのか、という形式の内的機能ではなく、
言語によって人々は何を意味しているのか、という形式の外的機能である。
抽象的な知識は現実のものにしなければならず、
それは、知識によってランダムな文章を引用するのではなく、
知識を実際のコミュニケーションとしての言語使用の中に置かれることによってなされる。
人は、単純に、何を知っているかを表現しない。
知識に基づいて行動するが、行動は様々なしきたりによって制限されている。
この点において、言語能力(competence)は、抽象的な知識であり、
かつ、習慣に従い知識を使うことが出来る才能(ability)である。
言語能力を訂正し、言語モデルの境界線を引きなおす方法が二つある。
① コミュニケーションのための資源として、言語の本質を現す相を含めることによって、
記号と内的言語を構成しているものを、定義しなおす。
それは結局、機能文法に帰着し、言語学的知識の概念を広げる。
② 知識と才能(ability)を両方含むように、言語能力(competence)の概念を広げる。
そうすると、言語運用(performance)は行動の特定の実例となり、単なる知識の反映ではなくなる。
才能(ability)は、言語能力(competence)の中で決定権をもつ存在であり、
そのおけげで私たちは、知識をはたらかせ、意味を表現できる。
言語能力(competence)が単なる抽象的知識であれば、
精神に吸収されたままで、現実との接点を失い、外に出てこれなくなってしまう。
才能(ability)がコミュニケーション目的によってのみ機能するものであるから、
私たちは、これの広範囲な概念を、伝達能力(communicative competence)と呼ぶことが出来る。
個別な経験から一般性を推測し、現実の抽象化をしなければならない。
私たちが言語を学ぶときにしていることである。
知識に基づいて行動することが出来ると言うには、
その過程を遡り、実例を理想化できなければならない。
これが、私たちが言語を使用するときに、していることである。
次のシェイクスピアの一文を考えてみる。
I wasted time and now doth time waste me.
まず、ここには9個の単語がある。そして、32個の文字。(延べ数=tokens)
ただ、同じものを一つとして数え直すと、
8種類の単語と、10種類の文字がある。(異なり数=types)
では、"wasted"と"waste"の単語は、どう扱うべきか。
別々に2種類のものと数えるか、同じ種類の単語とみなした方がよのだろうか。
これらを語彙項目(lexical items)として考えるならば、別に考えるべきだ。
"過渡に使う"、"衰弱させる"という違う意味で使われているからだ。
さらに、
母音と子音を別の種類の文字であると考えるならば、
ここには、延べ数19個の子音と13個の母音がある。
もし要素を述べ数として考えるならば、
一般化され抽象化された種の、個別の実例として考えることである。
しかし私たちは異なり数での、要素の区別をすることが出来る。
そこで疑問が浮上する。
私たちは何に基づいて、違う種類だと区別しているのだろうか。
言語学での分類の法則は何なのか。
哲学者アイザイア・バーリンは、すべての哲学的疑問はこの文から始まるとした。
"everything is like something: what is this like?"
私たちは、対象が共通にもっっている特徴を識別し、
異なる特徴を無視することで、
二つのものを同じ種類に分類している。
複数のものがあれば、それらの共通点と相違点を見つけ、
ある基準を設けてそれらを分類することは簡単である。
言語においても同様である。
問題は、どんな類似点が、言語学上重要視されるか、ということだ。
第一章(04/09)で述べたように、
二重性(duality)を言語の本質と捉えるならば、
言語の最小の分類は音(sound)と文字(letter)である。
意味の無いもの二つが合わさって、意味のある単語(word)となる。
低い地位の要素が合わさってより高い地位の要素に変化することが、
人間言語の特徴であるうならば、
これの考えが、先ほどの問いのヒントになるかもしれない。
safe / seɪf /
save / seɪv /
この二つの語の違いは最後の子音である。
/ v /は声帯の震えを伴う発音であり、有声音(voiced sound)という。
しかし/ f /には声帯の震えはない。これを無声音(unvoiced sound)という。
二つの子音の共通点は、両方とも、歯と下唇の間を空気が通ることによる摩擦音であることだ。
したがって、同じタイプの音声であると分類することが出来る。
この子音は、音声学的(phonetic)な違いだけでなく、
音素(phonemic)の、物理音としての違いもある。
音素の違いは、単語の成立のレベルにおいて機能上重要である。
上の二つの子音は、/ seɪ_ /という同じ環境に現れて、違う意味をあらわす。
同様に、"f"と"v"の文字は、"sa_e"という同じ環境に現れて、違う単語となる。
この二種類の音と文字は、同じ環境において現れるので、
似た子音であり、同じ地位の音、文字の要素と考えられる。
"f"と"v"は、単語の示差性として、同じ機能を果たしている。
ではこの二つはどうだろうか。
pot / pɒt /
spot / spɒt /
この二つの語の/ p /という音は、同じ"p"という文字を使って表記されるので
同一のものだと考えられる。
しかし、音声学的には異なる音である。
/ pɒt /の/ p /は呼気と一緒に発音されるが、/ spɒt /の/ p /には呼気は伴わない。
この違いは、この二つの語に独特なものではなく、
英語の一般的な音声パターンの特徴である。
頭文字にくると、呼気と一緒に発音し、"s"の後だとない。
この違いは先の/ f /と/ v /の違いと、同じではない。
同じ環境において現れる違いではないからだ。
呼気を伴うか、伴わないかは、音声学的な違いではあるが、
英語では、音素としての示差性は無い。
だが、もちろん異なった音声システムをもつ、異なった言語では、
異なった音声学的特徴を採用している。
これが、私たちが新たな言語とであったときの混乱を生じさせている。
私たちの音声区別の感覚は、慣れ親しんだ言語の音素の区別と一致する傾向がある。
例えば、日本語では/ l /と/ r /の音の意味的区別をしないので、
/ ra'it /と/ la'it /の意味の違いが分からないだろう。
言語音は、
より地位の高い、語の構成要素としての、他者との融合に関する二重性においての機能を考慮し、分類することが出来るが、
この規則は、音と単語の二重性においてのみに限定されるものではない。
言語の描写のすべてのレベルにおいて適用できる。
昨日述べたように、
音の分類は同じ構造環境において現れることが出来るか、に基づいて行われる。
このことは二つの関係性を考えればよい。
同じ環境において現れるという類似性と、
それによって明らかになる相違性である。
今日は以下の例を見てみよう。
/ pɪt / / pQt / / bQ /
これらの単語でペアを作るならば、二通りが考えられる。
ひとつは/ pɪt /と/ pQt / 。母音/ ɪ /と/ ǽ /が、/ p_t /の子音に挟まれた同じ環境において現れている。
もうひとつは、/ pQt /と/ bQt /。子音/ p /と/ b /が同じ/ _Qt /という環境で現れている。
構成要素が、同等な特徴と結合するとき、それを、統合関係(syntagmatic relation)という。
つまり、音という同じ地位の要素/ p /、/ Q /、/ t /が、結合して/ pǽt /という語になる時、
この三つの要素は統合関係にある。
同じような環境において現れることが出来る構成要素が複数あるとき、
それを、連合関係(paradigmatic ralation)と言う。
つまり、/ p_t /という環境に、/ ɪ /、/ Q /、/ ɒ /、/ e /があわられることが出来るので、
この四つの要素は、連合関係にある。
このような分類の規則は、他の地位の描写にも適応できる。
語の単位としての"pat"と"pet"が句(phrase)となるとき、同じ環境において現れる。
the pat/pet the friendly pat/pet that pat/pet that strred up all the trouble
このように、同じ環境において結合することが出来る。
対象となる語は、"pat"と"pet"のように音や文字が似ている必要は無い。
"man" "embaress" "platitude" "face" "match" "approach"...何でも良い。
"the __"、"a __"、"that __"のような環境に現れる語を名詞(noun)と言う。
もちろんこれは一般的な分類であり、結合の可能性の調査によって、いろんな分類がである。
すべての名詞は、冠詞(article)の後に現れることが出来る。
"pat"や"pet"は普通、そのような環境において出現し、
"paternity"や"petulance"のような語は、冠詞がない環境にも出現出来る。
その点において、"pat"や"pet"は可算名詞(count noun)であり、
"paternity"や"petulance"は、不可算名詞(non-count noun)である。
以上のような結合の可能性の分類は文(sentence)になる、区の結合にも適応できる。
The pat was offensive.
の下線部には、限りない数の句と入れ替え可能である。
"The fliendly pat " "The pat on the back" "The pitter patter of tiny feet" .....
これらは"___ was offensive."と結合できるので、統合関係にあると言える。
句内部の構造は異なっているのに、
文構造の構成要素としてはみな同等の機能を果たしている。
言語には二つの軸がある。
音と音、または文字と文字が語になり、語と語が句になり、句と句が文になる、
統合関係(syntagmatic relation)の軸。
とある水準の構造において、異なるものが同等の出現の可能性を持ち、
同等の機能を果たすときの、連合関係(paradigmatic relation)の軸。
この二つの軸が、人間言語の創造性と柔軟性、
有限の手法で、無限の表現を生み出す源となっている。
先日の引用を以下のように書き換えることが出来るだろう。
Everything is paradigmatically associated with something when it fits into the same syntagmatic slot: what is ths associated with?
この問いは、言語の欠片がどのように結びつき、
私たちは、どのようにしたら、異なる欠片を同じ分類の機能として結びつけることが出来るか、ということである。
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |