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しかし、コーパス言語学の主張にた対する疑問もあがっている。
コーパス言語学によって明らかにされた言語使用の事実は、
完全な真実の保証を続けているし、
人々が自分の言語に対して持っている直感は、それだけでデータとしての妥当性を備えている。
これらの概念構造は現実であるが、本質とは、違うものである。

例えば、語彙知識は、プロトタイプ(prototype)の点において、
意味論的に組織されていると言える。
それらは、観察されず、顕在化されるだけである。
英語話者のグループにおいて、
与えられたカテゴリーの、一番初めに思い浮かんだ具体例を挙げるように言われた場合、
彼らはきっと、意見が一致するだろう。
"bird"というカテゴリーでは、鶏でも、雀でもない、"robin(コマドリ)"が引き出される。
"vagetable"では人参でもレタスでもない、"pea(えんどう豆)"が引き出される。
これは、"robin"が"bird"のプロトタイプであり、
"pea"が"vagetable"のプロトタイプであることを示している。

同じことは、文法構造でも言える。
もし英語話者に、文章の例を挙げてくれと言えば、
Subject-Verb-Objectの、構造文を挙げる傾向にある。
"The man opened the door."や"John kissed Mary."などである。
(日本人に聞いたら、圧倒的に"This is a pen."であると思われる。)
これらの構造を持った文が、英語の典型的な文であると言える。
しかし、これらは実際の使用としての言語資料には、出現しにくい。
なぜなら、人々はこのような単純な表現を使わず、
これらの文は観察データとしての現実性が無いからである。
しかし、それでも、この具体例は重要な心理学的現実性を備えている。
行為の事実には反映されない、能力の証拠となるだろう。

このように顕在化されたプロトタイプは、
もちろん、コーパス言語学の観察データには為り得ない。
内省、顕在化、観察によるそれぞれのデータは、それぞれに妥当性がある。
妥当性は、求めている証拠の種類と、説明しようとした言語の性質の違いに依存している。
もしも、言語と意識の相互の関係の証拠を求めているならば、
内省と顕在化が良いだろう。
もしも、言語と外の社会との結びつきの証拠を求めているのならば、
現実の発生の観察データを見ると良いだろう。
様々な言語データの妥当性は、完全ではないが、信頼できるものである。
それは、あなたが何を説明しようとし、
何の証拠としてデータを使おうとしているのかに、左右される。

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妥当性の問題から、実用性の問題へと話を進めてゆこう。
言語学は、何のために在るのか?
人々に、何をもたらすのか?
どんな実践的使用に適応されるのか?
このような質問の答えとして、もちろん、
言語学は実用的な正当化をまったく必要としてない、と言えるだろう。
他の学問のように、言語学は知的研究であり、説明の追究であり、
それ自体で十分に正当化されている。
理解は必ずしも、実用性を必要としない。
特に、本質的な、人間に種特異な言語の性質を問題にするときは、そうである。

しかい言語学は、義務付けられていなくても、実用的な報告であった。
19世紀初頭の言語学の発展は、
今まで書かれなかった諸言語への聖書の翻訳が、重要な起動力となった。
翻訳には、顕在化と観察を通した、言語の分析が伴う。
故にこの作業は、記述言語学(descriptive linguistics)を含んでいる。
そして、英語のような特定の言語に基づいて気づかれた言語学を、
そのほかの言語にも関連ある学問にするために、再考する必要性が出てきた。
描写と翻訳の実用的な作業は、
広範囲な、論理的重要性の問題となった。

問題は他にもある。
理論と実践の関係についての問題。
言語学者の役割についての問題。
他の学問との、現時点での関係性の問題。
描写と応用言語学(applied linguistics)との関係の上で成り立つ問題。

翻訳の過程は、一つの言語で解読されたテクストの解釈と、
異なる型で、出来る限り同じ意味をもつ他のテクストへの加工を含む。
言語記号の違いに関する疑問は、対照言語学(contrastive lingustics)の範囲である。
特定のテクストの意味、特定の伝達記号の使用に関する疑問は、
談話分析(discourse analysis)の範囲である。
これらの分野は、実際の関連性を自称する。
なので、応用言語学の仕事である。

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対照言語学の、分かりやすい応用分野は、語学学習である。
翻訳のような、第二外国語の学習は、
既に知っている第一言語(L1)と、
知らない第二言語(L2)のとの、関係性の計算である。
この二つの言語記号の異なる点が、学習を困難にし、
対照分析が、教育プログラムの一環として在ることは、自明であるように思う。

しかしこのような分析の結果は、直接に応用されることは出来ない。
学習者は明らかに、学習の戦略としての翻訳を使い、L2をL1に当てはめているが、
原則に従い、予測出来るようなやり方では、行わない。
言語学上の違いは、学習上の困難の程度ではない。
誤用分析(error analysis)によって築かれた、実際の行為のデータは、
代わりの、論理的説明を必要とする。

一つの可能性は、学習者が、前もってプログラムされた認知課題に従い、
特定の獲得の順序で、言語の特徴を習得することである。
この方法では、異なる仮の、中間言語(interlanguage)の段階を通過する。
中間言語とは、言語習得過程において独特なものである。
第二言語の習得(SLA: second language acquisition)の調査において、
この可能性に関する疑問は、広範囲に及んでいる。

その他の可能性としては、
対照分析で使われている描写の枠組みが、
学習者の言語の側面を記録する為には、あまり精度が高くないと言うことだ。
おそらく学習者は、L1の明らかな形式的特徴よりも、言語経験の特徴に影響されている。
対照分析は、統語論的構造を主に対象としているが、
それだけが言語の特徴ではない。
その他のものと複雑な相互関係を持っている。
学習の困難は、L1とL2の差異に一致するかもしれないが、
差異を認める為にの、もっと洗練された理論と、
談話に重点を置く、もっと広範囲な言語の特徴を扱った理論が必要である。

談話分析は潜在的に、二つの点で、言語教育の問題と関係性がある。
ひとつは、
談話分析が、学習の最終的なゴールと、情報伝達の能力の方法を提供し、
特定の談話、書き言葉、話し言葉で組織された、使用のしきたりに対処するのである。
ふたつめは、
それが、学習の過程を誘発するために教室内に仕組まれた、
文脈を描写する手段を提供することである。
それは、教室の調査の基礎を提供する。

しかしこのような談話分析の関係は、語学指導を制限しない。
社会的精度を維持し、意見をコントロールするための言語の使用方法、
つまり、イデオロギーを表現し、権力の行使の方法を、
調査するために、談話分析は使われる。
批判的談話分析(critical discourse analysis)における調査は、
言語使用の社会的重要性と、政治的な暗示の認知
談話分析は、文学的文脈における解釈、とくに文体論(stylistics)と呼ばれるものの、
言語学的特徴の重要性の認知を発展させた。

これらの場合、
描写が、言語の使用と学習の、特定の関係の理解と関連があることを示す、と言う点で、記述言語学は応用言語学となる。
この使用と学習の関係は、特別な問題となって現れる。
例えば、教養講座の計画方法や、
法廷において言語上の証拠の解釈の方法がある。
これは法廷言語学(forentic linguistics)と言う分野の問題である。

しかし、関係性のその他の懸念は、より、一般的で広範囲に教育的である。
この本は、どのように言語が、完全に現実を満たすのか、
私たちが個人、社会的存在として生きるために、言語がどれほど重要なのか、
と言う疑問から始まった。
言語が何であり、どのように働くかにおいて、不明な点を残しておくことは、
それが剥奪され、不当に利用される危険がある。
言語の操作は、力の操作である。
言語は、言語学者に理解をゆだねるには、人類にとってあまりにも重要である。
私たちが出来る限り、言語を理解する必要があり、
さもなければ、本質的な人間を構成するものを、無視することになる。

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