句や文の構成要素として、語を機能させる装置であると言える。
この、語が適応すべき、より大きな構造を統語論(syntax)と言う。
形態論では、語が、どのように文中に順応させられるかに注目したが、
統語論では、語が文中でどのように他の要素と結合しているかに注目する。
明らかに、
この二つの分野は相互に依存しているし、
両方とも、文法体形(grammar)の研究の一部である。
屈折も何も無い原型の語群で、統語論的な考察を見てみる。
church gothic in live artist
を、意味の通じる文に並べて変えてみる。
ひとつひとつの単語を詳しく見てみると、
"artist"と"church"は名詞で良いだろうから、主語か目的語になる。
"gothic"は"realistic"、"rustic"、"fantastic"などから、形容詞であるように見える。
形容する名詞は、"church"の方が適切であろう。
"live"はこれだけでは形容詞か、動詞か分からないが、
この語群の中に、このほかに動詞らしき単語が無いので、動詞とする。
artist live in gothinc church
これが一番妥当であるだろうか。
これで凄く曖昧であるが、示唆している意味の分かるものとなった。
「一人なのか、何人もいるのか分からないが、芸術家が、
これまた数の不明なゴシック形式の教会に、住んでいる。それが、今の話なのか過去なのか分からないが、とりあえずそのような状態がある。」
さて、屈折を考慮すれば、もちろん分かりやすい文になるだろう。
まず、動詞は時制(tense)と相(aspect)を決めなければならない。
現在なのか過去なのか、そしてその動作は進行しているのか完了しているのか。
そして名詞に関しては、数(number)と定性(difiniteness)を決める。
それは一つなのか、複数個あるのか、
そして、みなが知っているそのものなのか、不確定多数のものなのか。
このような文法システムに適用させれば、多くの可能性が出来上がる。
The artist lives in a gothic church.
An artist lived in a gothic church.
The artist was living in a gothic church.
Artists live in gothic churches.
Artists have lived in gothic churches. など。
以下のことが指摘できる。
名詞と動詞が通る文法システムは、相互に調節されなければならない。
特に名詞の数と動詞の関係は深い。
より大きな構造である文の、相互に依存した構成要素として、
適応されなければならない。
そして、昨日のサンプルは屈折しか扱っていない。
文法的な役割を果たす機能語(function word)と呼ばれるような、
名詞や動詞から分離した形態素も存在する。
機能語は、大きな構造の構成要素であると同時に、
構成要素へと構築されたものである。
動詞には助動詞(auxiliay)と呼ばれるものがある。
"live"でも"lives"でもなく、"is living"や"has lived"と言ったものである。
名詞につく限定詞(determiner)にはおおきく三つあり、
"the artists"や"an artist"などの数や定性の目印となる冠詞(article)、
"that artist"や"these artists"などの対象を示す指示詞(demonstrative)、
"his artist"や"their artists"などの所属を示す所有格(possessive)である。
そして限定詞と名詞の間に介在することが出来る、形容詞がある。
"the gothic church"のような構造である。
このとき、形容詞の語を増やすと、例えば"old"と"derelict"を加えると、
"the derelict old gothic church"の語順に確定される。
この制限は曖昧なものではない。
名詞に近ければ近いほど、名詞との関係が密接な形容詞であることを示す。
この特徴は些細なものに思えるかもしれないが、
示された内容は否定できないものである。
言語の構造上の性質は、形式の観点からの分析が可能である。
語が結合の際に正しく組み合わせられるように、
それらを特定の方法で屈折的に修正させる機能を持つ、統語論的制限についての話をしてきた。
私たちの話していた語順や句や文の制限などの文法は、
情報伝達における長所である。
人々が表現したい現実を発信できるように、
形態論的に適応したり、統語論的に組織するのである。
文法は、文脈でのより適切な方角に正確に焦点を合わせるための道具である。
"Hungry?"は"Would you like to have your lunch now?"と言う意味であり、
"Door!"は、"You have left my door open, and I would like you to close it."となる。
名詞句には厳しい語順の構造の制限がある。
が、高性能な構造とは、より操縦の余裕があることを示す。
名詞句の制限が証明されたように、文における制限の緩和も証明された。
一般的に、構造が大きくなるほど可動性も大きくなる。
すべての場合において、統語論は、
語から読み取れる意味を十分に利用できるような手段となる。
構成要素の構造の規則は、統合関係(syntagmatic relation)と連合関係(paradigmatic ralation)に基づいている。
これらはとてつもない種類の結合と配列を生み出す。
言語学者は時々、これを、
気になる、まごつかせるような複雑な文章の発明により確かめようとする。
その文章は敢えて、実際の生活で使われる言葉に似せてある。
が、このような文章は、統語論的な方法を説明するための装置でしかない。
このように概略を示した形態論、統語論の思考の過程は、
形式という観点においてのみの描写である。
それらは言葉の意味を広げ、情報伝達の資力を築く。
言語においてどのように意味が解読されるのかの研究である。
語彙項目としての語の意味を扱うが、それだけではない。
接辞により意味が付加される派生形態論にも、
語形変化により意味も変わる屈折形態論にも、
統語論にも、意味論が欠かせないものである。
特に、文は語順を入れ替えると意味が変わる。
The bishop offended the actress.
The actress offended the bishop.
当然のように思えるかもしれないが、上の二つの意味は違う。
使われている単語は同じなのに、意味に違いが生じるのは、
英語において、語順が重要な統語論的な装置であるからだ。
この事実は語の語彙的意味の研究に進められることがある。
語の意味論的な不確定さを、
新聞の見出しのような配列によって確かめることは、良くあることである。
SQUAD HELP DOG BITE VICTIM
このような曖昧な表現を解くことが出来るのは、文法体形だけである。
上の主張の根拠として、よく、ルイス・キャロルの「ジャバウォックの詩」が引用される。
文法体形の優れた意味論的記号である。
'Twas brillig and the slithy tove
Did gyre and gimble in the wabe
これらの単語は意味を成さないが、
文法的根拠によってこれらの分類をすることが出来る。
('Twasは"It was"の詩的な表現である。
the、in、didなどの機能語を頼りに考えればおのずと以下のような結果が出ると思う)
まず、"brillig"と"slithy"形容詞であり、
"gyre"と"gimble"は動詞、"tove"と"wabe"は名詞である。
これらは通常の英語には存在しない語彙であるが、
似ている単語を思い浮かべることが出来る。
思い浮かぶ単語は読者ごとに異なり、異なった内容となる。
文の意味は、語彙のみによって決定されるものではない。
上の詩に、ヒントとなる機能語が何もなかったら、
その文字の羅列から意味を掬い出すことは出来ないだろう。
また、文の意味は、文法体形によってのみ決定されるものでもない。
次の文章に、何らか意味を見出せる人は居ないだろう。
'Twas adjective and the adjective noun
Did verb and verb in the noun
意味は実際、語の適応と組み立ての、形態論的、統語論的過程によって伝えられる。
明らかに、これらの過程で語が働き続ける必要があるし、
語は、選ばれた形式、外形で、意味論的な内容を与えるものである。
語彙の意味の単位に存在するルールとしての文法体形は、
組織され、修正され、要求に合わせられている。
それが意味を疎かにすることは無い。
既に存在する意味ののっとって、文法の過程は語彙的に働く。
同じレベルの構成要素の集まりの規則を参考に分析をはじめよう。
屈折的接辞は、二つの形態素を一つに結合させることが出来る。
"come"+(past tense)=came など。
"re-"や"un-"などの派生的接辞は、様々な語彙項目とくっつくことが出来る。
このような形態論的形式の、意味論的説明を試みてきた。
例えば、"unfix"は、"un-fix"として、お互いに分離した表現としての、
二つの意味成分(semantic component)からなると言える。
では、以下のような、一つの形態素からなる同義語をもつ派生語はどうだろうか。
unwell=sick
unhappy=sad
一語でなうならば、例はたくさん見つかる。
unwell=not well
reborn=born again など。
もしも"sick"が"unwell"の一種として捉えられるならば、
"sick"は"unwell"と同様に、二つの意味論的構成要素からなると言える。
もしこの二つの語が、異なる意味成分からなっているとすれば、
全ての語に対しても、同じ意味論成分を持つものは無い、と言えるはずである。
派生的形態素は、基語(stem)と接辞の意味が単純に足されているものではない。
"carefull"は"full of care"であるが、
"careless"は"with less care"ではなく、"with no care"である。
"-able"の接辞は受動態の略であるため、
"eatable"は"able to eat"ではなく"able to be eaten"の意味である。
動作主を表す"-er"の接辞を使った単語、"cooker"は
予想できる意味"a person who cooks"ではなく、"a device for cooking"の意味である。
語源(tymology)の歴史的変化で、基語の個別の意味は消え、接辞と混ざり合っている。
例えば"reckless"は"with no reck"ではない。
なぜなら、英語に、"reck"という名詞としての語彙素が存在しないからである。
逆に、また接辞も、それの意味が単純に加えられている訳ではない。
"re-"は一般に、動作のくりかえし"again"の意味とされるが、
"returen"は"turn again"ではないし、"recall"は"call again"でも無い。
全ての語彙素を、一つまたは複数の意味成分の発信の形であると考えられる。
動詞"return"は[come+back]、[give+back]から構築されている。
"come"は[move-self-towards]であり、対比される"go"は[move-self-away]と分析できる。
また、"give/take"は[move-something-towards/away]と書き出せる。
これらの要素は音の区分に似ている。
音声の最小対(minimal pair)である"come"/ kʌm /と"gum"/ gʌm /と同様に、
意味の最小対としての"come"[movement+here]と"go"[movement+there]である。
このような成分分析(componental analysis)で、
語彙の中に記号として存在する気味論的特徴を書き出し一覧にすることが出来る。
当然、結果は多量で複雑で混乱を招くものとなるだろう。
成分分析の基本的な目的は、ある特定の概念のカテゴリーや、
特定の要素を含んだ表現に見られる、意味論的法則を調べることである。
それは、"come"と"go"で問題となった「方角」から、
「過程」、「場所」、「所有」、「状態」、「容積」、「因果関係」などである。
これらを利用することによって、
語彙素の、字面通りの明示的意味(denotation)から、
語彙素の間に存在する意味関係(sense relation)へと話を深めてゆくことが出来る。
「方角」という基準を用いて、"come"と"go"の違いを説明できるとしたが、
これはその他の対立についても、言える事である。
"give/take"、"arrive/depart"、"push/pull"、"send/receive" など。
これらの語の組み合わせは、
行為に共通点があるが、反対の方向性を表わす語である。
これらの性質を反義性(antonymy)という。
これらの語の中で、ある共通の性質を持つ語の組み合わせがある。
"give/take"や"buy/sell"などがそうであり、
これらの語が持つ性質を正反対性(converseness)と言う。
一方が起こると、必ずもう一方が生じなければならない事例である。
つまり、XがYにものを売れば、YはXからものを買わなければならない。
これは「方角」だけの関係ではなく、"above/below"の「場所」や、
"parent/child"といった「相関関係」にもいえる。
AがBの親であるならば、BはAの子でなければならない。
次に、違った種類の反対の意味について、考えなければならない。
"big/small"、"long/short"、"thin/fat"、"far/near" など。
これらは完全に反対の関係であるわけではない。
とある基準と、何かを比べての、違いの程度を示すものである。
大きいネズミは、小さい象と比べたら、小さい。
このような種類の形容詞は段階的なものであると言える。
"very"や"extermely"を加えて強調することができ、
比較級(omparative degree)や最上級(superlative degree)という表現が出来る。
このような語彙は、上記の「方角」に関する語彙も同様に、
範囲の構成要素であることを制限されることは無い。
"happy/unhappy""は段階的であるが、
"male/female"や"married/unmarried"は決して段階的ではない。
"happy/unhappy"と"married/unmarried"を、他の意味関係の例として考える。
昨日の考察では、接頭辞"un-"は明示的意味において、合わさった語と同等である。
つまり、"unhappy"="sad"であり、"unmarried"="single"である。
接辞のついた語は、明示的に反義性が読み取れるが、
二つの語が一つの語に対して、同等な反義性を持っている例はたくさんある。
"sell"に対する"buy"と"purchase"や、
"arrive"に対する"depart"と"leave"である。
これらの語の組合わせが持つ性質を、同義性(synonymy)と言う。
さて、昨日は"come"を[move+self+towards]と分析したが、
意味の素性としての"move"は、数え切れない程の語彙の明示的意味として表れる。
"walk"は[move+on+foot]であると言える。
しかし、"walk"も、意味論的に他の語彙に組み込まれている。
例えば、"march"、"amble"、"stroll"、"tramp"、"stride"などである。
このとき"walk"は上位語(superordinate)であり、その他は従属的な語である。
このような"walk"とその要素を含む他の語彙との関係を、包摂関係(hyponymy)と言う。
この関係は樹形図に似ている。
「動物」は「哺乳類」の上位語であり、「哺乳類」は「げっ歯類」の上位語であり、「げっ歯類」は「ハツカネズミ」の上位語である。
包摂関係の同じ場所に二つの語彙が現れたとき、それを類義語(synonym)と言う。
"amble"と"stroll"がそうである。
この二つは上位語である"walk"に対して同等の包摂関係にある。
これらは、記号の要素としての明示的意味の同等性を対象としなければならない。
ここで言う類義語は、意味論的な関係である。
類義語の意味する範囲を広げると、
コミュニケーションの文脈において実際に使われる語としての機能も含まれてしまう。
それは語用論(pramatics)の範囲である。
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