共通の言語コードを共有していなければならない。
情報伝達の慣習の一致において、その言語コードを参考に出来なければならない。
A: The parson may object to it.
B: I don't think you need worry about that.
A: Well perhaps you should. As the chair I must tell you that he will have my support.
B: Yes, and we all know why.
A: That remark is out of order and I must ask you to withdraw it.
B: Don't be such a pompous ass.
上の例では、明らかに、二人の間に対立が生じている。
しかしそれは、
共通のコードとしての英語の意味論的しきたりと、
コードの使用される方法を規制する、統語論的しきたりに、
従っているから生じるのである。
言葉同士の参照の輪を築く、結束構造(cohesion)の一般的なしきたりがある。
この二人は、"that"や"it"が前に現れているものを参照し、
"you should"や"we all know why"が、
前の会話を参照することで完成する、省略や曖昧な表現であることを認識する。
言葉のやり取りそのものを規制する、交代(turn-taking)の慣習もある。
ひとつは、一回の発言の最後の中断の合図や、
話し手の役割の以降の認識である。
その他の慣習には、順番に関することだけではなく、
次の人がどんな動きをするか、ということに関する。
例えば、
質問するときは、相手に順番を譲り、答える権利を与える。
この時、慣習的に返事が要求される。
この点で、質問と答えは、交代の合図に依存し、
隣接対(adjacency pair)と呼ばれるものを構成する。
発言の関係を制限する一般的な慣習もある。
具体的には、情報交換の異なる方法とジャンル(genre)において、
どのように発話行為が結合するかの定義である。
上の会話文の例では、公式な会合の特徴がある。
この分野の慣習では、順番を操作し、発言を制限する権力を持った議長に、
決定権が与えられる。
この時Bが何を知り、何をしようとしているのかということは、語用論的な説明である。
人々が特定の共同体で慣習的に持っている概略的知識に、
どうやって言語が従事しているか、に関係している。
語用論は、人々がどのように共同体に順応するかという研究である。
しかし、語用論は、このよう慣習が
個人的な独創性に避けられ、消滅させられる方法にも関与している。
言語の使用は順応の必然的な行動である。
自身を主張し、他人を操作するアイデンティティーの行動でもある。
語用論は、人々がどのように意味をやり取りし、
人々がどのように社会的関係を交換するかに、関与している。
語用論は、書き言葉にも適応される。
話し言葉のような、即時的な相互の意味のやり取りや調節はないが、
書き手は、可能性のある読み手を投影し、彼らの反応を予想しなければならない。
読み手は、書き手と協力し、自分達の対話を活性化させなければならない。
書き言葉においても、話し言葉においても、
語用論は、人々が言語をどう理解するか、ということに関するものである。
妥当性を失わなければ、
他の知的な疑問の領域と同じように、
構築された考えに疑問を投げかけ、新しい見解を求め続けるだろう。
その本質は、ある程度の不安定性を含んでいる。
言語学に、安全でもっともらしい抽象の共通基盤があっても、
それを越えたところに、学問の領域と目的が何であるかに関する、競い合う緒論や異なる見解と修正、意見の不一致と論争が存在する。
昨今の議論では特に、三つの問題がある。
ひとつは、
この学問の定義に関する、第二章で述べた、理想化の問題である。
ふたつめは、
言語データの性質に関する、巨大な言語資料を分析のためのコンピュータープログラムのはって井の重要性に関する問題である。
みっつめは、
言語学の疑問が日常生活の現実的な問題として妥当であるための、責任と範囲の問題である。
文脈のある実際の使用例から、
言語コードの形式的な性質を抽出するような、理想化に基づいている。
同時に、
大量の多様な言語行動(パロール、又は言語運用)の基礎となる、
比較的安定した言語知識(ラング、又は言語能力)を見つけようとする。
このような抽象化には理由がある。
一つは、実践的な実現可能性に関する理由である。
言語行為の実現は、重要な一般化によって捉えるには、
あまりにも漠然としているため、このような方法で理想化するのが慣習である。
二つ目は、理論的妥当性に関する理由である。
これはチョムスキーの、言語運用‐言語能力の理論の基となっている。
この立場では、捉え難さからではなく、
大して理論的な関心が生じないので、実際の言語行動を無視する。
それらは本質的な人間言語の性質の、信頼できる証拠にはならない。
近年、この言語学領域に関する形式論者の定義は、
このように、実現可能性と妥当性の観点から提唱されている。
実現可能性を考慮する限り、
行為のデータが体系的な価値に、抵抗しないことが実証された。
行為には二つの側面がある。
一つは、心理学的な側面である。
どのように言語知識が利用手段の為に組織されているか、
習得と使用において、その利用手段は何なのか、に関するものである。
これは心理言語学(psycholinguistics)の主題である。
二つ目は、社会学的な一面である。
言語知識の利用手段は、何らかの伝達上の必要性によったものであるのか、
適切な言語使用のための、何らかの社会的文脈によるものなのか。
これらの適切さのための様相は、具体的に述べることが出来、
第五章の語用論の議論の中で、部分的に実証された。
言語記号と社会的文脈の関係性は、社会言語学(sociolinguistics)の仕事である。
心理言語学の利用手段の過程の働きと、社会言語学の適切な様相での働きは、
体系的に研究される行為の側面が存在し、
厳密な疑問は、高度な形式的言語学で提唱されるような、
抽象に依存しないことを証明している。
つまり、心理言語学と社会言語学は、正当な言語学の領域の範囲内にも存在する言語に関して、言わなければならないことがある。
このような意見は、寛大で隣人らしいものだ。
私たちはそのそれぞれの正当性に依って、異なる言語研究の領域を仕切っている。
妥当性に関して、形式論者の研究方法への挑戦は、まったく異なっている。
それは、まったく、寛大でも隣人らしくもない。
同じ領域の権利を主張する、競い合いの問題である。
それは、範囲設定の問題ではなく、定義の問題である。
それは形式論者と反対に、機能論者(functionalist)の研究方法である。
彼らの主張は、言語を抽象的な形式に変化させ、言語の研究そのものを減らす。
なぜならば、そうすることによって、
本当に重要な全てのものについて、考察から削除し、
人々の実際の言語経験と、救いようのないほどに、距離を置いてしまう。
言語は本質的に、安定し、良く定義された認知の構造ではなく、
本来動的で不安定な、情報伝達の様相である。
私たちが、形式の伝達機能で、形式を組織している限り、形式は重要で意味がある。
このような理由で、唯一妥当な言語学は、機能言語学(functional linguistics)である。
機能言語学(functional linguistics)でのべられるような、
機能から組織される言語の形式には、
二つの意味と二つの機能言語学の定義がある。
一つは、どのように言語記号が、使用に応じて発展したかを考えるものである。
この点で機能言語学は、
どのように、機能によって言語の形式的性質が伝わるか
どのように、現実の知覚、思考方法、文化の形を解読するのか、を研究する。
二つ目は、意味の潜在力を解読するのではなく、
実際の情報伝達の実現としての、形式と機能の組織を考えるものである。
異なった使用の文脈での、語用論的に言語が機能を形作る方法を考察する。
この場合、形式言語学(formal linguistics)が、対抗されているのは、
形式論が、言語記号を形作った社会的要因を無視して、
言語記号をあまりにも狭く定義しているからではなく、
情報伝達の為にどのように使用しているかを無視して、
言語を、記号に関してのみ定義したからである。
ここでの機能言語学の主張は、
言語学は、言語能力や記号の内面化された知識だけを説明するのではなく、
言語運用や適切な使用の為に人々が持っている知識を、説明するために、その学問領域を広げるべきである、ということだ。
以上の機能言語学の二つの意味は、よく混同され、
もし、徐々に記号構造に影響されている伝達機能を参照して、記号を定義するならば、
自動的に、情報伝達での記号の機能が在る方法の責任を負うだろう
と言う考えを、支持する。
しかし、この考えを支持することは、
記号の意味論的潜在力と、情報伝達での記号の語用論的現実化を、
同一視することである。
機能言語学は、言語を本質的に
情報伝達の為にデザインされた社会的現象とみなす。
それは、何が人間言語を種特異なものにしているのか、
言語の生得性の証拠となる普遍的特徴に、関心がない。
機能言語学はの関心は、人々の経験としての言語の現実であり、
形式言語学より、日常の問題に適応される。
形式言語学は、対抗者として、
これは理論的厳密さを犠牲にしてのみ、到達するものだと主張するだろう。
これらから一般的な疑問があがるだろう。
関連と説明責任が、どれほど言語の疑問において有効なのか。
言語データの資源は何なのか。
これらは後日説明しよう。
概して、私たちが頼れる言語データには、三つの源がある。
一つは内省(introspection)である。
私たちの、直感的な言語能力に訴えるのである。
これは、長い間の言語学史上伝統的な手法であり、
ソシュールの、共有された知識としてのラングの概念の本質である。
近年の文法書や辞書は、この言語学者の内省に基づいている。
内省の手段としては、言語能力だけでなく、情報伝達の能力も必要である。
この方法では、
適切な言語使用を定義するしきたりは、
同じ直感的な出所から書かれるべきである。
しかし、このような直感的な標本抽出では疑わしいところもある。
二つ目の抽出方法は顕在化(elicitation)である。
これは情報提供者として、共同体の中の、他の人たちの直感を参考にする。
この時、情報提供者に、
特定言語要素の結合が、彼らの言葉では、文法的に在りうるのか、
特定の文脈で、どのような表現が適当であるかなどを、尋ねることになる。
内省と顕在化は、
言語の形式的な潜在力と、使用時に言語の機能する方法を築く。
どちらの場合も、データは抽象的な知識であり、現実の行為ではない。
人々の、自らが行っていることに関しての知識を明らかにするが、
実際に行っていることは、明らかに出来ない。
もし、能力よりも、言語運用に関するデータが欲しければ、
観察(observation)をしなければならない。
近年のコンピューター技術の発展で、大規模な観察が出来るようになった。
プログラムは、コーパス言語学(corpuc linguistics)において
書き言葉、話し言葉を含む、実際に生じた言語を収集し、分析する。
この分析は、内省や顕在化の直感的な入手ではない、
統語論的、文法的な頻度や発生の事実を明らかに出来る。
これがより信頼できるデータであると思われる。
確かに、コーパスは、不確定で矛盾をはらんだ直感に依存しているものよりも、
人々の実際の言語行動を明らかに出来る。
しかし、このような大規模な言語観察は、
既存の、直感や顕在化に基づく言語学の分野をすべて修正させるような、
使用の様相を明らかにする。
コーパス言語学は、実際の言語を扱う分野であり、
現実の言語の真実に接近する機能言語学と、近い存在である。
コーパスの分析は、言語使用と実際の言語行為のデータを明らかに出来る。
それは、安定しよく定義されたシステムに基づく、
言語のモデルを妥当性に疑問を投げかける。
コーパスが提供する、念入りな写生は、
形式言語学がの成果である、抽象的な絵とはまったく異なっている。
もし言語使用が、規則に支配された活動であるならば、
その規則を詳細に、見分けるのは難しい。
かつ、この詳細は、内省や顕在化では届かないところにある。
小規模なコーパスであっても、
言語の使用者本人が気付かない、発生の様式を発見することが出来る。
コーパス言語学は、直感的な知識を超えて、
価値が高くてもっともらしく、
根拠のない抽象化を矯正するものだと考えることが出来る。
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