第1部 諸言語
植物学や昆虫学と同じように、「言語」に関わらず「諸言語」を分類する事は出来る。
「言語」とは論理的な側面である。
「諸言語」は、言語学者がこの地球上で手にする事が出来る具体的な対象である。
第1章 言語の地理的多様性 異なる種と多様性の程度
言語の多様性には二つの種類がある。
国から国へ、町から町への移動によって認識出来る変化と、時の流れに従う変化である。
必ずある世代に属している観察者に取って、時間の多様性は認識しにくい。
それに比べて空間の多様性は知るに容易く、人々を、もっとも明確に分類する基準である。
原始の人々に取って、言語の違いは習慣の違いであり、服装や装飾、武器の違いと同等であった。
この認識は(肌の色や体格差など、人類学の域に至らない限り)正しい。
「固有言語」とは、ギリシャ語で”idiome”といい、一民族に固有の特徴を持つ言語を指す。
ギリシャ語では、一民族の習慣という意味で、それは言語を含んだ諸習慣を指す。
どの民族にも、自分たちの言葉が正しいという意識は存在していた。
ギリシャ語の”barbaroi(バルバロイ、異民族)”は、
ドイツ語の”balbus(吃音、どもり)”と同じ言葉である。
インド語族では、話し方を知らない人と、吃音者を同じ単語で表す。
このように、異なる言語を話す人を、話す事が出来ない人とする認識は間違いである。
このように言語の多様性は、言語学を発展させるのに十分に興味深いものであった。
しかし、ギリシャ人は異なっていた。
多言語の存在も方言の多様性も認識していたが、彼らの興味は書き言葉であり文法であった。
ここで、二点書き加えておく事には、まず、言語の多様性は無限である事だ。
しかし、多様性と文法を扱うものが、同じ言語学であって良いのだろうか。
この二つを言語学内で結びつけるものは何なのだろうか。
もう一つの点は、言語の多様性を、民族的なものと認識する事である。
より複雑な民族との関わらせることで、地理的多様性の奥へと踏み込む事が出来るし、
言語の時間的多様性、そしてそれを阻止しようとする動きも考える事が出来る。
多様性の次に重要なのが類似性である。
ギリシャ語とラテン語、もしくはフランス語とドイツ語の類似性は、
民衆が一番良く分かっている事だったので、それを確かめるために科学者は必要なかった。
このため比較言語学に発展が遅れたのである。
類似性よりも大きな枠組みに、類縁性がある。
これは、系譜、家系的な考え方で、一つの共通の起源にさかのぼる事が出来る。
そしてこれが言語族と言う新たな枠組みをつくる。
さらに類似性を追求するのならば、遠く離れた言語族の、類似性の限界に直面するだろう。
ここで、多様性をまた二分する事が出来る。
ひとつは、類縁性の中の多様性。
つまり、同じ言語族に分類される中の、多様性である。
もうひとつは、認めうるあらゆる類似性を越えた多様性。
ヨーロッパから出るならば、ほとんどがこのような言語である。
この決して類縁性を見つけられない言語を、言語学者はどのように扱うべきなのか。
セム語族と印欧語族の類縁性を見つける努力もあり、
イタリア人のトロンベッティは、世界中の言語にある類縁性を示そうとした。
しかし、科学をするかぎり、真実らしい事と証明出来る事の溝は大きい。
それでは、類縁性の見出せない二つの言語を比較する事は出来ないのだろうか。
歴史的関連を掲げる比較が不可能でも、
文法構造や言語と思考の結びつきの違いを比較する事は出来る。
この二種類の多様性の研究は、まったく異なるものとなる。
さて、多様性にも程度がある。
類縁性の中の多様性にも、近い遠いが存在する。
ギリシャ語とラテン語の違いは、サンスクリット語から見たら微々たるものである。
突き詰めてゆけば、「方言」と言うものを目の当たりにするだろう。
「言語」と「方言」の明確な境界は存在しない。
従って、この二つの語彙の意味付けはしない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
植物学や昆虫学と同じように、「言語」に関わらず「諸言語」を分類する事は出来る。
「言語」とは論理的な側面である。
「諸言語」は、言語学者がこの地球上で手にする事が出来る具体的な対象である。
第1章 言語の地理的多様性 異なる種と多様性の程度
言語の多様性には二つの種類がある。
国から国へ、町から町への移動によって認識出来る変化と、時の流れに従う変化である。
必ずある世代に属している観察者に取って、時間の多様性は認識しにくい。
それに比べて空間の多様性は知るに容易く、人々を、もっとも明確に分類する基準である。
原始の人々に取って、言語の違いは習慣の違いであり、服装や装飾、武器の違いと同等であった。
この認識は(肌の色や体格差など、人類学の域に至らない限り)正しい。
「固有言語」とは、ギリシャ語で”idiome”といい、一民族に固有の特徴を持つ言語を指す。
ギリシャ語では、一民族の習慣という意味で、それは言語を含んだ諸習慣を指す。
どの民族にも、自分たちの言葉が正しいという意識は存在していた。
ギリシャ語の”barbaroi(バルバロイ、異民族)”は、
ドイツ語の”balbus(吃音、どもり)”と同じ言葉である。
インド語族では、話し方を知らない人と、吃音者を同じ単語で表す。
このように、異なる言語を話す人を、話す事が出来ない人とする認識は間違いである。
このように言語の多様性は、言語学を発展させるのに十分に興味深いものであった。
しかし、ギリシャ人は異なっていた。
多言語の存在も方言の多様性も認識していたが、彼らの興味は書き言葉であり文法であった。
ここで、二点書き加えておく事には、まず、言語の多様性は無限である事だ。
しかし、多様性と文法を扱うものが、同じ言語学であって良いのだろうか。
この二つを言語学内で結びつけるものは何なのだろうか。
もう一つの点は、言語の多様性を、民族的なものと認識する事である。
より複雑な民族との関わらせることで、地理的多様性の奥へと踏み込む事が出来るし、
言語の時間的多様性、そしてそれを阻止しようとする動きも考える事が出来る。
多様性の次に重要なのが類似性である。
ギリシャ語とラテン語、もしくはフランス語とドイツ語の類似性は、
民衆が一番良く分かっている事だったので、それを確かめるために科学者は必要なかった。
このため比較言語学に発展が遅れたのである。
類似性よりも大きな枠組みに、類縁性がある。
これは、系譜、家系的な考え方で、一つの共通の起源にさかのぼる事が出来る。
そしてこれが言語族と言う新たな枠組みをつくる。
さらに類似性を追求するのならば、遠く離れた言語族の、類似性の限界に直面するだろう。
ここで、多様性をまた二分する事が出来る。
ひとつは、類縁性の中の多様性。
つまり、同じ言語族に分類される中の、多様性である。
もうひとつは、認めうるあらゆる類似性を越えた多様性。
ヨーロッパから出るならば、ほとんどがこのような言語である。
この決して類縁性を見つけられない言語を、言語学者はどのように扱うべきなのか。
セム語族と印欧語族の類縁性を見つける努力もあり、
イタリア人のトロンベッティは、世界中の言語にある類縁性を示そうとした。
しかし、科学をするかぎり、真実らしい事と証明出来る事の溝は大きい。
それでは、類縁性の見出せない二つの言語を比較する事は出来ないのだろうか。
歴史的関連を掲げる比較が不可能でも、
文法構造や言語と思考の結びつきの違いを比較する事は出来る。
この二種類の多様性の研究は、まったく異なるものとなる。
さて、多様性にも程度がある。
類縁性の中の多様性にも、近い遠いが存在する。
ギリシャ語とラテン語の違いは、サンスクリット語から見たら微々たるものである。
突き詰めてゆけば、「方言」と言うものを目の当たりにするだろう。
「言語」と「方言」の明確な境界は存在しない。
従って、この二つの語彙の意味付けはしない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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