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チョムスキーのモデルに対する反論として、
彼の言う、言語学の知識というものがあまりにも狭すぎて、
文法の知識である統語論のことしか意味していない、というものがある。

言語を知ると言うことは、形だけでなく、
それがどのように機能するかを知ることである。
形式や文構成要素としてでなく、
複雑な統語論との相互作用なす意味の単位としての語を、知るべきである。
その結果、
言語の形式的なシステムは、現実の意味の記号化としての語と、共同で発展してゆく。
この点から、言語学とは本質的に、
どうやって言語は、意味をなしているのか、
どうやって機能上の情報を与えられているのか、という意味論(semantics)の研究をするものである。

チョムスキーの形式文法は、
統語論のとある特徴と、普遍的で先天的な人間の認知方法との一致を求めている。
反対に、機能文法の点から考えることが出来る。
言語が、どれほど環境によって左右されているか、
どのように社会的使用による変形があるか、
どれほど与えられた機能を反映しているか、を考える分野である。

言語の知識について問題なのは、
言語が何を意味しているのか、という形式の内的機能ではなく、
言語によって人々は何を意味しているのか、という形式の外的機能である。
抽象的な知識は現実のものにしなければならず、
それは、知識によってランダムな文章を引用するのではなく、
知識を実際のコミュニケーションとしての言語使用の中に置かれることによってなされる。

人は、単純に、何を知っているかを表現しない。
知識に基づいて行動するが、行動は様々なしきたりによって制限されている。
この点において、言語能力(competence)は、抽象的な知識であり、
かつ、習慣に従い知識を使うことが出来る才能(ability)である。

言語能力を訂正し、言語モデルの境界線を引きなおす方法が二つある。
① コミュニケーションのための資源として、言語の本質を現す相を含めることによって、
記号と内的言語を構成しているものを、定義しなおす。
それは結局、機能文法に帰着し、言語学的知識の概念を広げる。
② 知識と才能(ability)を両方含むように、言語能力(competence)の概念を広げる。
そうすると、言語運用(performance)は行動の特定の実例となり、単なる知識の反映ではなくなる。
才能(ability)は、言語能力(competence)の中で決定権をもつ存在であり、
そのおけげで私たちは、知識をはたらかせ、意味を表現できる。

言語能力(competence)が単なる抽象的知識であれば、
精神に吸収されたままで、現実との接点を失い、外に出てこれなくなってしまう。
才能(ability)がコミュニケーション目的によってのみ機能するものであるから、
私たちは、これの広範囲な概念を、伝達能力(communicative competence)と呼ぶことが出来る。

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