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語用論(pragmatics)は、話し手・書き手によって伝えられ、聞き手・読み手によって解釈された意味の研究に関連している。それ故、発話の中の単語や句自体が意味しているものより、発話によって人々が何を意味しているのかの分析と、関係が深い。語用論は、話し手が意味していることの研究である。
このタイプの研究は、必然的に、とある文脈で人々が意味している事の解釈と、文脈が発言にどれほど影響を与えているかの解釈と関わる。話し手が、聞き手、場所、時、状況に従って、言いたいことを組み立てる方法の考察が求められる。語用論は、文脈的な意味の研究である。
このアプローチはまた、話し手がほのめかす意味の解釈に行き着くために、聞き手が推測を立てる方法の探求が必要である。このタイプの研究では、多くの言われてないことが、どのようにして、伝えられたこととして認識されているかを調査する。語用論は、どうやって言われていることよりも多く伝えられているのか、の研究である。
この視点から、何が、言うか言わないかの選択を決定しているかという疑問が上が。簡単な答えは、距離感と関係がある。物理的にも、社会的にも、概念的でも、親密さというのは経験の共有を含む。聞き手がどれほど近いかある派遠いかという過程で、話し手はどれほど言う必要があるのかを決める。語用論とは、相対的な距離の表現の研究である。
これらが語用論に関係する4つの領域である。どのように進むのかを理解するために、その他の言語学的分析の領域との関係をみてみよう。


統語論と意味論と語用論
言語分析の伝統的な違いが、統語論と意味論と、語用論を対比させる。統語論(syntax)は言語学的形式の関係、一続きの中でどのように配列されているのか、どんなまとまりが整っているのか、に関する研究である。このタイプの研究は、一般的に、文献の世界や、その形式の使用者の事は考慮しないで行われる。意味論(semantics)は言語学的形式と世界の中の存在との関係を研究する。つまり、世界が物と文字通りつながっている方法の研究である。また、意味論的な分析は、誰が記述したかに関わらず、言葉での記述と世界の事柄の状態との、正確な、あるいはそうでない関係を証明しようと試みる。
語用論(pragmatics)は、言語学的形式とそれらの使用者との関係の研究である。この3つ領域の特徴の中で、語用論だけが人間を分析に含めている。語用論を通じて言語を研究する強みは、人々が意図した意味、彼らの仮定、彼らの目的やゴール、要求など話す時する行動の種類に関して話すことができる点である。
とても重大な欠点は、すべてのまさしく人間の考えは、矛盾の無い、客観的な方法での分析が非常に難しいという点である。話している2人の友人は、明確な言語的な証拠を与えずに、相手に何かを伝えたり暗示しているだろう。それを、私たちは、れっきとした、伝えられた意味の源として示すことが出来る。例1は、その問題のケースである。私は話しているのを聞いたし、意味もわかる、しかし、何が伝えられたのかはわからない。

例1
女:So --- did you?(それで、したの?)
男:Hey --- who wouldn't?(え、しない人がいる?)

このように、人々が言語学的にどのように意味を成しているのかについてあつかっているので、語用論は魅力的だ。しかし、人を悩ませる領域でもある。なぜなら、語用論は、人々と人々の頭の中を解明することを要求するからだ。

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規則性

幸運にも、言語を使うとき、人々は全く規則的に振る舞う傾向がある。これらの規則性は、人々が社会的集団のメンバーであり、その中で期待されている規範的な振る舞いに従っている、という事実に由来する。普通、親しんだ社会的集団の中では、礼儀正しく振る舞い、適切なことを言うのは簡単である。新しく、なじみの無い社会では、何を言うべきか分からず、間違った事を言うのではないかという不安の感じる。
はじめてサウジアラビアに住んだとき、私は、アラビア語での「調子はどう?」のような健康状態に対しての質問に、「うん。」「元気。」のような慣れ親しんだ答えと同じ答えを言う傾向があった。しかし、結局私は、そのような質問に対して、人々は「神を称えよ」という意味のフレーズで応えていることに気がついた。私は、文脈の中で語用論的に適切でありたいと思い、新しい表現をすぐに習得しだ。最初の私の返事は、語彙も発音も、間違いではない。しかし、その態度は、私が予期せぬ方法で返事をする社会的部外者である事を意味していた。つまり、言葉よりも多くの物が、伝わえられたのである。社会の構成員がどのように使っているかの語用論も学ばずに、ある言語の言語学的形式を習得していた、ということを、はじめ、私は知らなかった。
その他の言語使用の規則性のもとは、そのコミュニティーの構成員の多くが似たような世界の経験をしており、非言語的知識を共有しているという事実に、由来する。会話の中で、例2のようなことを私が言ったとしよう。

例2
古い自転車が倒れているのを見つけた。チェーンはさびて、タイヤは空気が抜けていた。

なんで、チーェンやタイヤのことを急に言うんだと、君は聞いたりしないだろう。もしXが自転車であるならXはチェーンとタイヤ(そしてたくさんの部品)があると、君が推測と仮定できる。このような前提があることにより、例3のような表現は語用論的におかしいだろう。

例3
古い自転車が倒れているのを見つけた。自転車というものには、チェーンがある。その自転車のチェーンはさびていた。自転車というものには、タイヤがある。そしてその自転車のタイヤは空気が抜けていた。

君はきっと、言葉よりも多く伝えられているものを感じる、知識の無い馬鹿なやつとして扱われているように感じるだろう。もう一度言うが、言語学的形式に、間違ったところはひとつもない。語用論的誤りが不愉快にさせているのだろう。
これらの規則性のタイプは、ほとんどの言語学的分析で無視されてきた、言語使用での非常に単純な例で記述されている。通常の言語使用の規則性や、たくさんの他の状況を研究することが、なぜ語用論の領域となったかを理解するためには、現在のような状態にどうやってなったのか、少し歴史的な視点が必要である。

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語用論のくず箱
言語研究の長い歴史の中で、しばしば数学や論理に由来する、形式的な分析のシステムへの強い関心があった。重要視されたのは、言語の非常に奥深くにある抽象的な規則を発見する事であった。言語学者や言語哲学者たちは、抽象的で、潜在的で、普遍的な言語の特徴に対する探求を中心におき、彼らの日常的な言語使用のノートを机の端に追いやった。机の上がいっぱいになるにつれ、これらの普通に使われている言語のノートは、追い出されついにゴミ箱行きとなった。ゴミ箱から溢れ出るものが、次のページで語られることの源となっていく。ゴミ箱の中身は、もともとひとつのカテゴリーに整理されていたものではない。形式的システムの分析では簡単に扱えなかったものとして、消極的に定義された。それ故に、我々がゴミ箱から引っ張りだしてきた材料を理解するためには、どうやってここにたどり着いたかを、調査する必要がある。
言語学者や言語哲学者は、言語の構造の分析に専念した。例4を考えてください。

例4
The duck ran up on to Mary and licked her.
(そのアヒルはメアリーに駆け上り、彼女をなめた)

統語論的アプローチでは、この文章は正しい構造を定義するルールに従い、間違った配列はない。間違った配列とは、例えば"Up duck Mary to the ran"のようなものだ。また、統語論的分析は、動詞"licked"の前に消された要素を示す事を求め("and _ licked her")、その空の項目を許容する、あるいはその場所での代名詞"it"が受け入れられる規則について詳しく述べる事を求める。しかしこれらの統語論での研究では、アヒルはそんなことしないし、これはおそらく犬の事をいいたかったのではないか、というような主張はまったく見当違いである。加えて、純粋な統語論的視点では、"The bottle of ketchup ran up to Mary.(ケチャップの瓶がメアリーに駆け上った。)"のような文章も、例4と同様に正しく組み立てられているのだ。
しかし、意味論的側面では、テーマとあるだろう。「アヒル」と表示された存在は、動物(animate)という意味上の特徴があるのに対して、「ケチャップの瓶」は非動物(non-animate)である。「駆け上がった(ran up on)」のような動詞は主語に動物を求めるので、「アヒル」は良いが、「ケチャップの瓶」はだめだ。
意味論は、文章の中で述べられた命題の真理条件も扱う。これらの命題は一般に、シンプルな節の基礎的で文字通りの意味と一致し、慣例的に、p、q、rの文字で置き換えられる。それでは、"The duck ran up on to Mary "をの命題をp、"The duck licked Mary."の命題をqとして、表現された意味の関係を見てみよう。この2つの命題は、&(ampersand)と呼ばれる論理的接続のシンボルで結びつけられる。そして、例4の文章の命題は、例5のように置き換えられる。

例5
p & q

もしpが真であれば、qも真であり、p & qも真である。もしpとqどちらか一方が真でなかったら、必然的に、p & q のつながりも偽である。このような分析は形式的意味論で広く用いられている。
残念な事に、このような分析では、p & q が真であっても、論理的に、q & p が真であるとはならない。この場合、 q & p は例6のように表現されるはずである。

例6
The duck lisked Mary and ran up to her.

毎日の言語使用では、例4で記述されているような状況のと、例6での事柄の状態は一致しない。記述された2つの事柄の連続があり、その連続は、出来事の観点から、言及される順番に反映されていると期待する。
もしpがある行動を含み、qが他の行動を含む場合、私たちは、"and"の接続を論理的な&ではなく、"and then"のように連続する表現として解釈する圧倒的な傾向がある。これは、言われている事より多くが伝えられているという他の例である。習慣的な言語使用の原理を例7のように提案するかもしれない。

例7
Interpret order of mention as a reflection of order of occurrence.
(発言の順番を、物事の順番の反映と解釈する)

例7で表現されている事は、統語論や意味論の規則ではない。まったく規則ではない。私たちが聞き、読んだものの意味を理解するためによく使う、語用論の原理である。しかし適用できないような状況では、それを無視できる。以降の本の中では、このような原則はたくさんある。チャプター2では、最も単純な原理、「2人の話者が共通項を持っていればいるほど、身近なものを認識するのに、より少ない言語を使う」から始めよう。この原理は、物理的に共有された文脈で、"this"とか"that"を頻繁に使うことの原因を説明する。例えば、「これとそれどっちが良い?」のような表現だ。直示(deixis)の研究での使用で、この基本的な様相を吟味しよう。

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直示(deixis)は、ギリシャ由来の専門用語であるが、発話で使うもっとも基本的なものである。直示とは、言語によって指示することを意味している。この指示の役割をするどんな言語学的形式も、直示表現(deixis expression)と呼ばれる。未知のものに気付き"What's that?"と尋ねるとき、すぐ近くの状況で何かを述べるために、直示表現"that"を使う。直示表現は指示詞(indexicals)と呼ばれる事もある。それらは、幼い子供に話され、人称代名詞(person deixis)によって人を示し、空間的直示(spatial deixis)で場所を示し、時間的直示(temporal deixis)で時間を示す。これらの表現の解釈は、文脈を共有している話し手と聞き手に依存している。加えて、直示表現は、顔を合わせた会話の交流でのもっとも基本的な使用がみられる。例1のような、その場にいる人には簡単に理解できるが、その場にいない人には翻訳が必要な発話だ。

例1
I'll put this here.

もちろん、ジムがアンネに、予備の家の鍵をキッチンの引き出しに置きながら言ったと理解できる。
直示は明らかに、話し手の文脈と結びついている参照の形式である。それには「話し手に近い」ものと「話し手から遠い」ものの直示表現のもっとも基本的な区別がある。英語では、「話し手に近い」ものあるいは隣接する(proximal)用語は、this、here、nowがある。「話し手から遠い」ものあるいは末端の(distal)用語は、that、there、thenである。nowが、一般的に話し手の発話があるある点や期間を参照していると理解されるように、隣接の用語は、典型的に話者の場所あるいは直示中心(deictic center)から解釈される。末端用語は簡単に、話し手から離れていることを示すが、「受け手に近い」と「話し手と受け手から遠い」の区別を持つ言語もある。それ故、日本語では、thatの翻訳として、受け手に近い「それ」と、話し手と受けて両方から遠い「あれ」そして、話し手に近い隣接の表現「これ」の3つの区別がある。

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人称代名詞(person deixis)


先ほど述べた区別は、人称代名詞(person deixis)を、話し手(私)と受け手(あなた)に関係づける。これらの形式の平易さは、使用における複雑さを隠蔽している。これらの直示の表現を習得するために、会話の中の人々が、「私」と「あなた」に入れ替わり続けていることを見つけなければいけない。すべての幼い子供は、この区別に問題があると学ぶ段階、つまり、大好きな本を掲げながら"Read you a story(君に本読んで!)"と言う段階を経る。
人称代名詞は明らかに、基礎的な3つの区別で作動している。例を挙げると、イt人称の(I, 私)、二人称(you, あなた)、そして三人称(he, she, it, 彼、彼女、それ)だ。多くの言語では、これらの話し手、受け手、その他の区別は、社会的ステータスの指標と一緒に構成されている。例えば、より優位な立場の受け手と、より劣勢な立場の受け手の対立がある。より優位な立場であることを示唆する表現は、敬意(honorifics)と言われる。どちらの形式がより良いと決める環境の考察は、社会的直示(social deixis)とされる。
人称代名詞のにおける社会的対比でよく知られているのは、いくつかの言語での、親しい受け手と、親しくない受け手の形式の区別である。フランス語の"tu"(親しい相手に)と"vons"(親しくない相手に)の語からT/V区別として知られている。この区別はドイツ語(du/Sie)、スペイン語(tú/Usted)など多くの言語で見られる。形式の選択は、確かに、話し手と受け手との関係に対する見解についての何かを伝えている。個々が典型的に話し手と受け手の社会的ステータスの区別を示すような社会的文脈では、より高い地位で、より年輩で、より多くの権力をもった話し手は、より低い地位で、より若輩で、より権力の少ない受け手に対して、"tu"を使い、反対の場合"vous"を使う。社会的な変革があったとき、たとえば現代スペインで若いビジネスマン(より高い経済ステータス)が、年輩の掃除屋の女性(より低い経済ステータス)に話しかけるとき、どのように受け取るだろうか。年齢の差は、経済力の差よりも影響力が強く、年輩の女性が"tu"を使い、若輩のものが"Usted"を使う。
スペイン語の、よりなじみの無い表現(Usted)は、歴史的には一人称にも二人称に使われた形式ではなく、三人称に関係する。直示形式では、三人称は、私とあなたの基礎的な関係の直接的な参加者ではなく、部外者であり、離れている必要がある。三人称代名詞は、常に人称代名詞の形式のなかで、末端である。二人称を使うだろうときに三人称を使うと、隔たりやなじみのなさを伝える方法である。これは英語でも、1人がキッチンで忙しくて、受け手が怠けているときの例2のように、皮肉やユーモアの狙いで使われる。

例2
Would his highness like some coffee?
(殿下、コーヒーはいかがですか?)

この三人称の形式で結びつけられた疎遠さは、例3a. のように、より間接的に非難を示すとしても使われる。あるいは、一般的な規則に従って、例3b. のように、人格的な問題を、人格を持たないようにみせるために使われる。

例3
a. Somebody did't clean up after himself.
b. Each person has to clean up after him or herself.

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