忍者ブログ
[1] [2] [3]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Grammaticalization
多くの文法は語彙から始まる。
発音の変化により生じた差異を埋めるためにも、言語の表現力を高める場合にも、典型的に、既にある名詞や形容詞等の単語の文法化(grammaticalization)によって、新たな文法要素が作り出される。
例えば、英語の'have, 'do', 'will'がそうだ。これらの「所有」、「行動」、「意志」という元来の意味が完全に取り除かれ、助動詞として文法的機能を果たしている。
文法化は普遍的な工程であり、世界中の言語で特徴的な類似点がある。文法化された単語が使用される目的、機能を変更する助動詞や冠詞、屈折に変化してゆく筋道。??
 
文法化の施される語は、ほぼいつも、もっとも一般的な意味を持つ。'perform'ではなく'do'であるし、'possess'でははく'have'だ。
文法化は典型的に、文字通りの意味を追うだけでなく、広範囲でもっとぼんやりとした感覚で理解出来るような、曖昧な文脈で行われる。英語の未来を表す'going to'がそうだ。'I am going to sell my cow'これは市場に行くと言う移動を表しているだけでなく、本人の意志もあらわす。
時を経て、意志の意味がもっと強くなり、そして移動を含まない文脈でも使用されるようになった。そして現在の、完全な文法化がさてたものとなった。
'go'や'come'などの移動を表す動詞からの例をあげたが、未来を表す助動詞は、be動詞や「変化」「望み」「義務」「好み」などの意味を持つ動詞の文法化によるものも普遍的である。イタリア語では、すぐに何かが起こりそうなとき、「~するために立つ」と言う。
その他の未来を表す形は、'have'である。ラテン語では、不定の'habere(to have)'の形式で未来を表した。例えば、'cantare habeo(sing to have)'は'I will sing'の意味である。だんだんラテン語のこの形は、屈折語尾として変化してゆく。'cantare habeo'はイタリア語で'canteò'となり、フランス語では'je chanterai'となった。
受け身の助動詞はbe動詞や、「変化」「残存」「位置」を表す動詞などから文法化される。また、多くの言語で過去を表す標識が、「終了」の動詞から作られている。「方向」を表す語が完了を示し、「知識」を示す語が能力を示す。
多くのヨーロッパの言語で、指示詞が抽象的になり、冠詞をなす。ラテン語の'ille(that)'がフランス語では'le'やスペイン語'el'の冠詞となった。
英語とフランス語の否定を表す副詞は、連語の文法化によるものである。'not'は'na wiht(no thing)'に由来する。
 
面白い現代英語の文法化として、'yez'や'you all'などの方言と平衡して、'you guys'が単数'you'と対照的に、二人称複数代名詞の役割を果たしていることである。
また、新しい2種類の助動詞が発展している。'be set to'は報道の文章で、'be about to'と似たような用法で広く使用されている。'see'が文字通りの意味が薄れ、'there is'構文のかわりに用いられている。例えば、'The last half year has seen a significant reduction on accident rates.'は'there has been a significant reduction on accident rates in last half year.'の意味である。
 
文法化は普通一方向である。意味は抽象的に一般的になり、同時に共通して形態も発音も縮小される。
ヨーロッパの言語の過去時制の連語は、進行する意味の変化の良い例である。
典型的には、'have+過去形動詞'は最初、現在はもう終わったという結果の意味であった。'I have six boxes packed.'である。これが、現在との関係性を保ったまま、次第に現在の意味から過去の意味に移行した。'I have packed six boxes.'これが現代英語と現代スペイン語に置ける意味である。
もっと発展すると、フランス語とイタリア語、ドイツ語のように、現在との関係性は消え、単なる過去時制として使用されるようになる。
また、'I've'という形式的な縮小は意味の変化と同時に起こる。英語の過去法助動詞も、'coulda'や'whoulda'など、形式的な縮小が起こっている。そして'going to'もそうだ。非標準的な'gonna'は発音の変化を反映しているが、実際はとても広範囲に広がり、'I'm going to'がもとの/aŋnə/、'you're goung to'に対応する/jəgnə/など、代名詞と結合した破格な語を作り出している。
 
Speed of change
言語の変化は、もちろん、一晩で起きるものではないが、小規模な変化はそれなりの速さで普及する。特に、今日のような世界規模の急速な情報化の時代ではそうだ。ここ10年ぐらいの出来事であるが、アメリカの日常語が、イギリスの若者達の間で使われている。
しかし、言語システムをかえるような大きな変化は、数世紀の時間がかかる。
英語の進行形は、数百年の時をかけて使われるようになって来たが、今でも進行形に用いられない動詞がある。しかし、この抵抗もだんだん弱まって来た。最近は'I'm understanding maths much better now.'という表現がある。
比較級と最上級の形も同じ道筋をたどっている。18世紀までは3音節以上の形容詞にも'-er', '-st'の語尾が可能であったが、やがて'more'と'most'が付くようになった。しかし最近は、2音節の形容詞にも'more'と'most'を使うようになった。
また英語の法助動詞も、わずかに変化している。'may'と'must'の使用が減少しているのである。
 
ある言語はとてもゆっくり変化する。例えば、アイスランド人は、800年前の文章を苦もなく読むことが出来る。
また、言語間の接触によって急速に変化することもある。南アフリカの植民地のオランダ人入植者は、多くの言語に触れ、文法の簡略化が進み、ヨーロッパのオランダ語とは違う言語、アフリカーンス語(Afrikaans)になった。
章の始めで述べた、300年あまりの劇的な英語の変化は、ノルマン・コンクエスト語のフランス語の影響によるものである。その後のよりゆっくりした英語の歩みは文学の発展によるものである。文学が、言語の標準化を押し進め、変化を防いだのである。
 
How did it all start?
長い長い間に、言語の変化は繰り返して現れる。
まず、単語が文法化されて助動詞や小さな機能語になる。これらが名詞と動詞などの結合が屈折を生む。発音の変化によって、価値を失った屈折が削除される。消えた屈折の機能を補うために、新しい助動詞や機能語が作られる。そしてそれらが、名詞や動詞と結合する。
最初の文法化の過程は、ピジン(pidgin)から新たなクレオール言語(creole)の発展の方法で明らかに観察することが出来る。
ピジンは情報伝達を活性化するための、貿易用の乏しい交渉言語であり、典型的には、英語やフランス語などの語彙を、地元の言語の文法に沿ってつぎはぎにつなぎ合わせたもので構成されている。ピジンは誰の母語でもなし、言語としての機能も欠如している。
しかし、ハワイ、ニューギニア、カリブ海などの世界中の地域で、ピジンが全てのコミュニケーションに適応され、複雑で規則的な文法をもった、完全な言語として発展した。それがクレオール言語である。
クレオール言語には共通点がいくつかある。たとえば、動詞、名詞、形容詞、副詞を文法化して機能語や助動詞に変形し、時制を表している。
私たちは、どのようにして言語が生まれるかを研究することは出来ないが、ピジンからクレオール言語への発展が、言語の進化の過程を捉え、もっと原始的で文法もなく表現も限られた最初の言語の発展を明らかにすることが出来ると、多くの言語学者が信じている。
そう考えると、文法化は、言語の変体の重要な役割を果たしている。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

PR
Language under attack
 言語の変化は自然で普遍的な現象である。しかし人々は大変なことだと心配する。
 イギリスの新聞や報道は定期的に、文法に従わないことや、読み書き能力の低下、有害なアメリカ英語の使用、有識者達の粗悪な文法的違反などへの不満を掲載する。
 我々の言語遺産が脅かされているようである。恒常な警戒をしなければ、英語は衰退し腐敗するだろう。
 1985年、当時の政治の重要人物であるテビットは「一度基準から外れれば、犯罪に関わるだろう」と発言をしている。
 イギリスだけではない。フランスのル・モンド誌が定期的に編集者達の、フランス語に起こっていることを嘆く記事を出版している。日本語は、若者の音節の削除や文法を無視した敬語の助詞の重複、外来語の氾濫によって乱されている。ガラル・アミンは'Whatever happened to the Egiptians?'にこう書いている。
 「50年程前のエジプト人たちがアラビア語に対して抱いていた尊敬と尊重を覚えている人たちは、最近のアラビア語の扱いを嘆かざるを得ない。人々はかつて、よいアラビア語を書くことが出来、アラビア語文法を良く知っていることが誇りであった。しかし、すべて過去のことである。」
 多くの国でこのような嘆きが聞かれる。ともかく、人々はもう、正しく自分の言語を使うことは出来ないようだ。
 
 What do we mean by 'incorrect'?
 人が、誰かの言語を間違っていると言う時、その人は以下の5の項目を参照しているのだろう。
 1、外国人学習者の間違い
 2、母語話者の間違い
 3、方言の使用
 4、揺れのある使用方法
 5、日常語や俗語の形式
 
 言語を専門にしていない人々は、これらをすべて「まちがった文法」とし、文法書に載っているような1つの正しい言語が存在するのだと思うだろう。そして、規範から逸脱したものは間違いであり、不用心で、無関心で、浅はかで、教養がない印だと、考えるだろう。
 しかし上に述べたように、言語行為のタイプによって明らかな違いが存在し、どれも、「間違い」と言える証拠はない。
 大切なことは、バリエーションと間違いを区別しなければならないということだ。
 
 Mistake
 青年を過ぎたら、新しい言語を完璧に習得する人はほとんどいない。従って、非母語話者が間違いを犯すのは当然のことである。もちろん、外国語の教師もそうだ。
 さまざまな国の英語学習者の典型的な間違いがある。'I not understund.', 'this book was writing by my uncle.', 'New car must keep in garage.'などだ。
 これらは、言いたいことは分かるが、明らかに間違いである。それぞれの文法が矛盾しており、そして、どんなに頑張っても、どんなに動転していても、母語話者が犯しそうも無い間違いである。
 
 母語話者も同じように間違いを犯す。舌をかんだり、言い間違いもある。複雑な構造を間違えることもある。例えば、'Teenage driver are twice as likely to have accidents than the average.'のような文を作る。続けて発話しなければならないような、実況や演説によく起こる。
 
 間違いは故郷を離れた、まだ習得していない言語を使用している時に良く起こる。
 数年前、オックスフォードのパン屋に'This is a food premise. Please do not smoke.'という看板があった。この看板を書いた人は明らかに、この場合'premises'は複数形でのみ使用されることを知らなかった。改まった表現はこのような問題が多い。
 書き言葉は、話し言葉にみられないような独特な文法的性質を持っている。従って、ある意味で、話し言葉は、言語を学ぶ全ての人にとって目新しく不慣れな方言なのである。
 
 Variation
方言は、明らかに上に述べた間違いとは、異なるものである。彼らは間違いを犯していないし、異国の地に来て慣れない言語を話している訳でもない。
 誰が彼らの文法に関して何を言ってやりたいと思っていても、彼らは子供の頃に習得し、慣れ親しんだ構造のを使っているのであって、彼らの中での正しく、適切な方法で矛盾無く使用されているのである。
 このような発話は、バリエーションの例である。言語的に、普通で、全く問題ない。
言語は時間の中で変化し、地域によって変化し、社会階層のなかで変化し、個人個人で異なり、個人使用も異なる。
 
Dialect forms
 言語とは、陸軍と海軍を持つ方言のことである。(マックス・ヴァインライヒ)
 方言:政府、学校、中流階級、法、そして軍事力以外の全てを持った言語の種類(トム・マッカーサー)
 
方言は、しばしば、言語の崩れた形だと考えられることがある。正しく文法を習わなかったり、うまくいかなくて悩んだことが無い、無学で不注意な人々が使う間違った言葉だであると。
しかし、実際は、英語の方言には長い歴史がある。遡れば、中世にブリテン島を占拠したゲルマン人とスカンディナビア人の侵略者たちの話し方に行き着く。
加えて言語学的な分析により、良く出来た方言は、たとえ標準とかけ離れていても、かなり豊かでシステマティックな文法を持っていることがわかった。
面白いことに、人々は遠くは慣れた方言に関しては、この考えを受け入れやすい。
ブリテン島の南からやって来た人の言葉は、標準文法からの逸脱だと考えるが、スコットランド地方から来た人の言葉は、独自の規則をもった別の言語のバラエティーだと考える。南方の方言も、スコットランド地方と同様に歴史的な根拠があり、彼らのルールの中に従った正しい言葉を使用しているが、隣接するの標準英語話者を困らせているのである。
 
 方言が怠惰で不合理であるという信条は根拠が無い。方言が標準文法よりも簡単ということは出来ない。
 学校の先生は'I didn't do nothing.'を間違っていると言うだろう。英語では二重否定は肯定を示すが、フランス語は二重否定を使う。実際、二重否定は言語ごとにそれぞれであり、多くの言語で使用されている。現代標準英語では用いられないが、古英語と、そしていくつかの方言では使用されているのである。
 
 標準言語というのは、言語学的に良くない。
 それはただ、政治や教育などの目的に使用されている言語のバリエーションである。'I want'が本物で、'I wants'がそれの崩壊した形だとか、そういうことは何も無い。ただ、'I want'がたまたま、歴史的に権力を持った先祖が使っていた形であっただけである。
878年に アルフレッド大王の勝利により、ロンドンに建設した政府がブリテン島全体を治めるようになり、結果的に、ノルマンフランス語の影響を受けたロンドン地方の方言が、政府、法律、商業、教育、文学の言葉として採用されたのである。もし、アルフレッド大王がバイキングに負けていたら、きっとブリテン島の首都はヨークになっており、今の英語とは全く異なる言語がイギリスで使用されていただろう。
 
 Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

Alternative usage
慣用法もまた、方言と同じように変化する。
標準英語話者でも、ある人は'different from'というし、その他の人は'different to'という。同じように、'under these circumstances'と言う人も居れば、'in these circumstances'と言う人も居る。'less people'でも'fewer people'でもどちらでも良い。'Shall', 'I were', 'whilst', 'whom'を使う人もいるが、他の人達はほとんど使わない。
これらは言語の変化によるものである。新しい用法は、古い用法を一晩で消し去ったりはしない。同じ意味を表すための複数の選択肢が共存しているのである。実際、数世紀この状態が続くことがあり、'different from'と'different to'の共存は400年前から続いている。
場面の違いで個人の中にもバリエーションが生じる。友達同士で方言で話していても、お店の店員には標準語で改まった形で話しかけるだろう。普段よく使う'I've'や'don't'のような短縮も、公式な場面では'I have'、'do not'を使う。
方言がそうであるように、これらのバリエーションも価値判断の基準となりやすい。
 
おそらく、より古い形式だとか伝統的だとか公式文書の文法だとか、そういう理由で、1つか2つの形式がよりふさわしいと判断される。
日常的な言葉は、公式な文章と違うだけで、構造や表現が間違っているのではない。この異なるスタイルの言語を状況に合わせて用いることが出来る能力は、言語運用の問題である。
そしてこの敵対する2つの形式が標準語話者の間で広く話されているのであれば、この2つの形式が普及しているということが出来る。永遠に「正しい文法」が刻み込まれた石碑は存在しないのである。
 
この考えを受け入れがたいと思う人もいるだろう。これは、なんでも良い、と言っているのと同じで、標準なんてものを定める方法が無いのだ。
確かに、慣用法は唯一の規範にはなり得ず、また、楽な方へと流れるものである。外的な権威が必要だ。
文法、辞書、たくさんの慣用指針があるが、それらはなぜ存在するのか?規則を示しているのではないのだろうか?
 
Authorities; description and prescription rules
'authority'という言葉は、真実と力と関係している。主語としての'authority'は信頼出来る情報を与えてくれる人達で、'authority'と持つ人は、何をすべきで、何をすべきでないのかを教えてくれる。
従って、言語学的な'authority'は、2種類の規則を作り出す。公式の説明書(description)と独裁的な規範(prescription)である。
 
記述的な規則は単純に、言語学的な正しさのことである。言語が作り出す自らのルールである。
標準英語の三人称単数現在の動詞には'-s'が付くとか、現在は目的語として'who'と'whom'両方が使われるとか、アメリカ南部とスコットランド地方の英語では法助動詞の二重が可能であるとか、ロシア語の名詞は6個の格変化があるとか、標準中国語では'ma'をつければ疑問文になるとかである。
これらのルールは言語が適切に機能するように意図的に作られたものではない。言語の進化の産物であり、使用者も気づかない複雑なメカニズムから導き出されたもので、意図的に操作することは出来ない。
一方、規範的な規則は、言語学的な規定のことである。言語は一般化するべきで、整頓されて、乱れを防がなければならないと言う信念で、個人が考案した規則である。これらの規則は、母語話者が書いた慣用法辞典などに現れる。
多くのものが、18、19世紀の英語文法を拠り所にしている。なぜなら、多くの著者が、英語文法は、すばらしい言語であるラテン語の文法と似ているべきであると、考えているからである。
これらの規則は、教育的な伝統にも用いられる。ラテン語の動詞の不定形は一単語だったので、英語でも、'to'と動詞の間に、副詞などその他の単語を挿入することはしてはいけないとか、ラテン語の文章がそうであったように、英語の文章も前置詞で終わってはいけないとかいう迷信である。
 
Problems with prescriptive rules
規範的な規則は、それを作った人達の信念を押し付ける。真実ではなく、意見である。
分離不定詞に関する規則も、前置詞の位置に関する規則も、英語文法の現実に基づいていない。推理小説家レイモンド・チャンドラーは、原稿の分離不定詞を編集者が修正する事に立腹し、「私が不定詞を分けたら、神が地獄に落とそうが、分けたままにしろ」と伝えた。
また、規範的な規則は、'they, them, their'の三人称単数の代名詞としての用法を、'They'は複数だという非論理的なことを根拠に非難している。'they'は、'you'と同じように、複数と単数の機能を持つ。'If sombody phones, tell them I'm not.'何世紀も使用されて来た用法なので、英文法はこれを認めなければならない。
 
論理的とは、整理整頓のことだ。
標準英語の典型である'It's me.'や'John and me saw a good film.'という文章は、どちらの場合も論理的に'me'は主格であるべきという理由で非難される。しかし、'me'と'I'の選択は複雑である。統語論的な環境と形式レベルに依るものであって、単純に、すっきりさせる事は出来ないし、ましてやラテン語の代名詞にも共通して適用されるような規則は無い。
格のシステムは言語ごとに異なっており、そこから逸脱するような、観念的で抽象的な構造など存在しないのだ。多くの言語は、ヨーロッパの主語-述語構造とまったく違う方法で組織されている。また、他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格で、他動詞の主語が異なる格をもつ文法もある。
'John and me saw....'の文章を見て、「動作主は主格」という論理的な立場で'John and I saw....'が正しいと言う事は、「鳥は飛ぶ」からペンギンも飛ぶ、と主張しているようなものだ。
 
また、規範的な規則はよく歴史に訴える。
英語の'different'はラテン語の'differre'から派生したもので、意味は'to carry away'である。だから、英語の前置詞は'to'ではなく'from'である、と主張する。
しかし、歴史は、正しい使用法も論理も与えてはくれない。このような主張は、現行の文法と語彙をほとんどを変えてしまう。'do'無しの疑問文で、動詞は節の最後に置き、'lady'の意味は、パン屋だ。
言語がどのように機能しているかを理解するために一番適切なのは、現在の言語を観察する事であって、過去の言語ではない。
 
規範的な規則は、自分自身の慣性に依って発展する。
若い頃に規範的規則を一生懸命勉強した人達は、彼らの地位を示すそれらの知識が価値を減らしてゆく事に落胆するだろう。
スティーブン・ピンカーが著書「言語を生み出す本能(The Language Instinct)」の中で指摘しているように、多くの規範的規則は心理学的にあまりに不自然なので、このように正しい教育を受けて来た人だけが認める事が出来きる。そして'sh'を発音出来ないエブライム人を区別するシボレテ(shibbileth)のように、無学な大衆からエリートを抜き出すのだ。
 
Ripples on the ocean
学校でしっかり文法を習ったから自分は言語を正しく使っていると思っている人は、文法の出典の膨大な量を見て驚くだろう。そして、学校文法がどんなに小さい範囲のメカニズムであったかに気づくだろう。日常の会話で、話し手は、素早く、苦労も無く、膨大で複雑な文法的操作し、選択し、そしてこれらの複雑な規則の存在にも気づかずに実行している。そのなかには、学校で習った文法などほとんどない。
学校文法は、せいぜい、句読法と、大雑把な文法カテゴリーの区別と、文体的な疑問文と、間違った文法の指摘をするぐらいだ。これは英語の構造の広大な海の、さざなみ程度に過ぎない。
 
文法的な規範によって、言語が崩れていくのは防止出来るという考えは非現実的である。
言語は、複雑でほとんど知られていないメカニズムと調和して、それ自身で発展する。その発展に影響を与える人はほとんどいない。規範的な規則は少しは慣用を変える事が出来るが、このような宣言は、言語の発展全体の中では対した効果は無い。
そもそも、言語はこのような保護を必要としていない。政治や経済とは違い、言語に悪い変化は無い。太古の昔から「言語が地に落ちた」という言われているが、十分な話者数をもった言語で本当にそうなったものは無い。
しかし、「十分な話者数」の問題がある。
少数派の言語の政治的、経済的機能が、英語のような強力な言語に依って剥奪されている。このような少数派の言語の話者数は減少していく危険があり、実際に消え、言語の死が訪れる。このような言語の使用者が感じる恐怖は、残念ながら、十分に根拠のあるものである。
 
The desire for standardization
もし、言語のバリエーションと変化に対する反対が、間違った情報で非現実的だとするならば、なぜそれが残っているのだろうか。
一部は、おそらく、明らかな理由に依るものだ。年配の影響力のある人々が、彼らの基準と言語使用を存続させようとし、そして、その他のグループや世代のものになるのを食い止めようとするからだ。
新しい音楽の流行やヘアスタイルののように、間違った言語は既存の権威の否定と反抗を象徴するシンボルとなりうる。
しかし、これが全てではない。規範的な規則は、利益のために、標準化を望む人々の本能を反映している。
全ての人々が他者の言葉を簡単に理解出来れば、社会はもっと効率よくなる。そのために、言語の標準化は欠かせない。そして標準語は、統一、価値の共有、所属意識など、社会の象徴的な重みとなるだろう。
広く使われる書き言葉の標準化は、言語の変化を緩め、数世紀前の文章も難なく読めるようになる。短期的には、世代間での不和が少なくなり、長期的には、共同体の文化継承がしやすくなる。
 
The price of standardization
残念だが、標準化はかなり高くつく。
一般的に、標準は書き言葉だけにあるので、非標準語話者は、文学を読み、社会を渡ってゆくために、新しい方言を学ばなければならない。
学校のシステムには壁がある。このような手続きは、どんなに地元で活躍出来ても、2つの方言をうまく使いこなせず、書き言葉の文法的慣習を習得出来なかった人達には、事実上、閉ざされている。
この文脈のなかで、文法的正確さは、その人が規則に従い権威を尊敬していると言う、象徴的な価値を示す。
 
最近の言語教育は、現実的に言語のはたらく仕組みを理解する事を大切にしている。しかし、方言は未だ間違いとされる。
言語の標準化は必然的に、他のバリエーションとともに、その話者の価値をさげる。方言の話者は無学だとか、無知だとか、馬鹿と言われ蔑まれるだろう。このような態度は、大きな損害を与える。
子供達の母語は、個人的社会的アイデンティティーと固く結びつく。そして五歳児の話す言葉も、それがどんな方言であっても、驚く程の知識で構成されている。自動的で無意識の操作で、いまだよく理解されていない複雑で固く組織された言語システムとサブシステムを使いこなしている。
子供達が、学校の授業と社会のなかで、自分は適切な言語を学べなかったのだと、そして言語を教えてくれた両親は、正しい言語を知らない劣った人間であると信じてしまう事は、とても悲しい事である。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

Investigating language
チェスがどのように進んでいくかを、観察だけで、発見していくことを想像してほしい。試合の流れを見て、駒の動きを記録を分析する。誰もあなたに助言をしてくれないし、ルールブックも見てはいけない。
それでも、ある程度のルールを素早く見つけ出す事が出来るだろう。例えば、ビショップは対角線上に進む。キングは一度一コマしか進めない。
その他のルールはもっと分かりにくい。例えば、キングとルークを同時に動かす、キャスリングという不自然で複雑な一手がある。これは一試合で一回しか行う事が出来ない。キャスティングのルールを知るために、たくさんの試合を観察し、何回も仮説を確かめる必要がある。
それでは、何百、何千の駒があったらどうだろうか。
プレイヤーは全員が同じルールに従っている訳ではなく、間違いも良くする。その間違いが、間違いであると言うことも、あなたには分からない。
これは、言語学者が言語の規則を導きだそうとしているのと同じである。
言語を使用する能力、言語能力(competence)は、使用者のそれぞれの頭の中に少しずつ違う形で共有されている。能力の証拠である言語運用(performance)とても複雑でバラエティーに富んでいる。そして、言語能力と言語運用の関係性は、決して一直線ではない。
 
Form outside to inside
1950年代から、言語学の研究の焦点は言語運用から言語能力へと移っていった。紙の上やテープレコーダーの中の文法から、頭の中の文法に注目が映った。
ノーム・チョムスキーの「文法の構造(Syntactic Structures)」が1957年に出版されてから、多くの学者にとって、文法の研究は記述的なものから解釈的なものになった。この立場では、研究の目標は、ただ実際の言語に観察される規則を抽出するだけでなく、深層にある精神的な規則を明らかにする事である。その規則とは、言語の中で、全ての可能な文法的な文章を生成し、非文法的な文章は無い。
そうして最終的には、人間言語に普遍的な性質を明らかにしたいと考えている。
 
規則は、非文法的な文章を生成しないという考えはとても重要だ。
記述文法家たちは、伝統的に「そこにあるもの」に注目してきたが、使用者が無意識にしている規則化の方法を探るために、「そこにないもの」に対する注目も、同じぐらい重要である。
例えば、再帰代名詞の適切な説明のためには、何故再帰代名詞を用いるのかだけでなく、'*When they left they took the dog with themselves.'が不可能であるように、なぜ再帰代名詞を用いないのかを説明する必要がある。
このような問いは、誘出法(elicitation test)と呼ばれる方法で分析する事が出来る。これは、ある状況を説明する文法的な文章を、人々に作らせる方法である。あるいは、文法生判断テスト(grammaticality judgement test)がある。これは、用意した文章に、文法性の点数をつけてもらう方法である。
この方法で、あまり出てこない文章を調査する事が出来、安定した秩序と、単純なテストでは現れない制約(constraint)を明らかにする事が出来る。
英語では例えば、'wh'抽出と言われるものがある。埋め込み文への問いであっても、主文での'what'が使用出来る。'What did John think Ann told Peter she had bought?(ジョンは、アンがピーターに、何を買ったと教えたと思っているのですか。)'しかし、次の文で「アンが何を買ったか」を問う事は出来ない。'What did John get cross because Ann told Peter she had bought.(アンがピーターに何を買ったと言ったから、ジョンはふて腐れているのですか。)'(このような例文群の評価で、'what'と'bought'の間に、どこまで複雑な文章が介入する事が可能なのかを、計る事が出来る。)
このような関係構造の範囲に渡って、文法評価を引き出す事で、研究者は、下層にある生成文法(generative grammar)を築く事が出来る。生成文法とは、母語話者の慣用法を操作し制限するものである。
 
強力で効率的な発生源である規則の研究は必然的に、文法を、表面的な記述から、抽象的な公式へと導いた。
例えば、英語の生成文法では、名詞句と形容詞句と前置詞句と節構造が、全て同じ下層の構造を持つ。しかし表層にはその構造は現れない。このように、深い部分にあるひとつ規則によって生成されている。さまざまな構造の表面的な違いは、話し言葉や書き言葉などでの現実化と抽象的な構造を結びつける規則によって説明される。
この方法では、単純に見える文章もかなりの分析が必要になる。
 
Learnability and universal grammar
以上のような報告が、とてつもなく複雑で未だ完全に理解出来ない構造的な原理により、作用するものとしての言語を描き出す。
これはもっと重要な問いを導きだす。子供達は、どのようにして、日常的に苦もなく母語を習得しているのか。
入力はきれぎれで不完全である。親の言語は、子供が下層の構造を理解し機能させるためには、不十分でばらばらで雑多なモデルのように思える。実際、入力は、実行されている安定して複雑で文法的な制約の根拠にはならない。例えば'wh'抽出を含む構造は珍しく、子供はその文章を作れないし、間違いを修正する事も出来ない。
事実として、言語の知識は、入手可能な入力によって決定するのではない。このような刺激の不足を理由に、多くの言語学者が、言語の知識には既に繋げられているものがある、と主張している。私たちは、生まれながらに言語の知識を持っている、という主張だ。
これは、遺伝的な才能によって、子供達はまず、どのように言語が組み込まれているかに関して知識を持っていると仮定する。そのため、一度の言語の入力で、子供達はすぐさま既存の枠組みに母語の詳細を当てはめる事が出来る。ガイドラインもなく与えられた記号を解読する必要な無い。
1950年代から、多くの言語学的研究は普遍文法(universal grammar)の性質を探る事であった。そしてさまざまなモデルが提示された。
もっとも影響力があった枠組みは、チョムスキーが1980年代に提唱した原理(princilpe)パラメーター(parameter)である。簡単に言うと、私たちの遺伝的な才能は、全ての言語が従う原理に関する知識と、変える事が出来る特定のパラメーターに関する知識を含んでいる。
 
よく引用される原理の例は、依存構造(structure-dependency)である。2章で述べたが、言語の操作は、単語よりも構造と関係している。例えば英語の疑問文を作るプログラムを組むとして、一番始めの動詞を操作する、というような単純な方法では出来ない。
 That man is Greek.→Is that man Greek?
 That man who is laughing is Greek.→*Is the man who laughing is Greek?
2番目の文章で操作を正しく行うためには、最初の'is'は主語の名詞句の中のもので、主動詞ではないと知っていなければならない。
 
そしてパラメーターの例は代名詞主語省略(pro-drop)である。主語の代名詞を省略する事が出来る言語がある。例えば、通常、イタリア語では'He/She has paid'は'ha pagato(has paid)'と言う。主語を言う必要がある特別な時にだけ、主語を加え'lui ha pagato'と言う。しかし、フランス語では、このような代名詞の主語を省く事は非文法的である。
この説では、フランスとイタリアの子供は大量の入力を分析する必要は無く、パラメーターに関する知識を既に持っている。少量の入力が、この言語が代名詞主語省略をするか、しないかを示唆し、それに従って子供はパラメーターを設定する。それぞれの言語の文法的な違いは、複数のパラメータの設定の違いに収束する。
 
Problem with the innate view
生得的な言語の知識の主張は説得力があり、これを題材にした広範囲の研究は、さまざまな言語の文法への理解を大きく深めた。
それでもなお、普遍文法は、かなり議論をかもしている。
世界の言語の共通する中核を仮定するのに十分に抽象的で、そこから様々な言語の異なる表層を生じるさせる方法を含んだ文法は、とてつもなく複雑であるはずだ。
これは必然的にこのような疑問を投げかける。複雑な文法が遺伝的な才能と言う主張は、どの程度もっともらしいのか?
1950年代から、単純化したため、生成文法はおおきく変化して来た。近年の急速な変化とチョムスキーの最初主義プログラムの発展にも関わらず、この事業が成功したのかもわからない。
 
もう1つの問題は、普遍文法の学習可能性に関するものである。普遍文法は、入手可能な入力では学ぶ事が出来ないものである。
子供達は、仮定の普遍的な核文法(core grammar)だけでなく、多くの周辺文法(peripheral grammar)も習得する。周辺文法は各言語で異なるため、遺伝的な才能の一部ではあり得なし、格文法と同じぐらい複雑である。
この周辺文法は、入力から学ばなければいけない。そのほかの情報源がないからだ。そこで、今の知識でその方法がわからないとしても、どうして、周辺文法と同じ方法で、入力から核文法を学べないのか。という疑問が生じる。
 
しかし、既に繋がれた言語の知識があっても、なくても、人間は言語を学び発展させる強い性質を備えている事は確かだ。
教養に差があっても環境が違っても、すべての子供達はこのすばらしい手柄を収める事が出来る。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

Usage-based associative learning
近年の電子コーパスの発展は、言語運用の分析を革新し、結果的に記述文法への回帰を促した。そして、言語獲得での入力の役割へ注目が集まっている。
現在のもっとも有力な説では、言語の使用は、生得的なものではなく、利用別連想的学習(usage-based associative learning)の結果である。
子供達は、言語の入力の中から、規則に関する膨大な統計的情報を見つけ、蓄積する事が出来る、という証拠が増えている。言語習得の速い段階で、関係のない言語の塊を習得し、少数の単語を組み合わせた小さい構造を得、その後、少しずつ異なる構造の何千もの実例と、抽象的な規則、頻繁に出現する構成要素の無意識の一覧表、合成語、形式と機能の関係性を学んでゆき、言語が発展すると言われている。子供達は、自分の言語の規則を、内在化した規則の主要なパターンを参照する事で段階的に獲得してゆく。
認知心理学者ニック・エリスは「言語の規則は、データと記憶と発話の合わさった、中心的な傾向として現れる。」
この頻度に基づく言語学習の説明は、生得的な知識が無くても、言語学習者が、言語の中に見られる規則と言語に決して現れない制約を発見する方法を説明できると主張する。
そしてこのモデルは言語獲得だけでなく、言語使用も扱う。言語使用としての生産と理解は、話し手と聞き手の、言語学的項目と構造の発生の見込みに関する細部の理解を深めるのである。
 
多くの文法理論が、脳の中での構造と手続きが裏付けられる方法を知る事ができないとしてきたが、この連想的学習モデルは、神経ネットワークの操作の仮説を含んでいる。このような結合説支持者(connectionist)のモデルをコンピューター・シミュレーションで使用する研究は、構造的でない入力から文法的な規則を得る実験に成功している。
 
Modularity: grammar in the brain
多くの、モジュール方式(modularity)に関する議論がある。人間は、認知に関する働きとは区別出来る、言語を操作する機能(module)、あるいは複数の機能を持っているのか、という問題である。
言語獲得と蓄積と使用が、その他の認知機能と独立しているという証拠があるようだ。
例えば、言語獲得の臨界期(critical period)がある。ある年齢を超えると、新しい言語を母語話者のように話す事が出来なくなるようである。また、言語入力が無かった子供達の場合、大きくなってから言語を学ぶと、ずっと不完全で非文法的な言語使用が残る。
その他の例は、脳を損傷した患者の報告である。病気や事故が、その他の精神的な機能はそのままに、患者の言語使用能力の一部、あるいは全てを奪う場合がある。精神障害者が、全く問題なく言語を使用出来るのとは真逆の例である。
 
近年まで、脳の中での言語の活動は、脳損傷の事例を調査するという間接的な方法でしか研究する事が出来なかった。このような研究により、長い間、言語に関係ある脳の部分が知られている。左耳の前方に位置するブローカー野(Broca's area)の損傷は、名詞と少量の動詞を含む、ほとんど文法構造のない、とぎれとぎれの発話を呈するが、理解力に損傷は無い。左耳の下の方に位置するウェルニッケ野(Wernicke's area)の損傷は、滑らかさと文法性を残したまま、正しい単語が少なく意味の分かりにくい発話を呈し、理解力は乏しい。
近年の脳画像の技術により、言語を使用している最中の、脳の血液の流れや電流の動きの変化を見る事が出来るようになり、そして、脳の部分と言語使用の関係性の詳しい観察を得る事が出来るようになった。例えば、文法と語彙では、異なる刺激のパターンを伴う。
しかし、集められたデータは、複雑で分析が難しい。知識が増えてきていても、詳細な画像が出来上がる前に、もっと研究が必要である。
さしあたって私たちはどのように言語が蓄積され処理されるのかはほとんどわかっていない。どの程度の言語の活動が、科学的、電気的に現れるのかもはっきりしていない。私たちの精神的で言語学的な概念の表現と言語学的規則が、神経の中で物理的な部分を持っているのか、あるいはその他の形態として現れるのかもわからない。
現在の研究では、私たちの知識の多くが神経の活動の分布パターンの形式によるもので、場所の表示ではない。時がたてば、おそらく明らかになるだろう。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

言語学が大好きな一般人のブログです。 過去の記事は、軌跡として残しておきます。
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
プロフィール
HN:
てぬ
性別:
女性
自己紹介:
大学院で言語学を学びたい大学生が、日々の勉強の成果を記録してゆく為の、個人サイトでした。
最新コメント
[07/22 てぬ]
[07/20 ren]
[05/24 てぬ]
[05/22 ゆう]
最新トラックバック
バーコード
P R
忍者ブログ [PR]