この名詞句は、話し手も聞き手も知っている、ある特定の聖職者である。
この句は指示の機能を果たしており、
これを参照(reference)としての情報伝達の働きという。
聞き手もこの参照を承認せねばならず、
もし参照が成立しない場合は、指定を無効にしてしまう。
聞き手は「誰のこと?どの牧師?」と聞き返さなければならない。
語用論的な意味に必要なのはこの、参照である。
話し手は、何かについて話をするとき、命題(porosition)を表現する。
この時、共有された知識の文脈の中に、話し手と聞き手を入力するために、
記号の象徴的慣習を利用する。
話し手は、直接何かを表現するのではなく、
発話行為(illocution)や情報伝達の行為をするために、何かを表現する。
言葉は参照だけでなく、発話の力(illocutionary force)を持っている。
発話によって、話者は何かを意図している。
決断の理由や、講義や、警告などを。
既出の発話に続く文や返事など、
語用論的な可能性は、言語自体が発信しているものではない。
これらは文脈によって推測される。
語用論の一側面として、命題参照がある。
もうひとつは、発話の力だ。
三つ目は、発話媒体行為(perlocutionary effect)である。
話者は、文脈によって推測できるような計画的な意味を表現しているだけではなく、
聞き手にある種の効果をもたらすような、意味も表している。
驚かせたり、喜ばせたり、感動させたり、共感させたりするのである。
参照や発話の力、発話媒体行為の話をしているとき、
私たちは、意味論的な、言語そのものの意味を扱っているのではなく、
語用論的な、発話行為(speech act)で人々が達成した意味を扱う。
音声学や音韻論、統語論など、
今までは言語の中の関係性について話してきたが、
発話行為に言及するときは、
行為の発生の文脈と、言語が使われた外的な状況との関係性が重要である。
文脈は、ありのままの現実であるだけでなく、
重要だと認識される視点である。
言語の使用者は、ある音声学的特徴を取り除くことで、
音素の重要性として音を区別する。
あまり重要なことだ思えないが、彼らもそう思ってはいないだろう。
使用者は現実の構図を投影している。
同じことが文脈に関しても言える。
人々が同一のつながりを作るとき、
彼らの世界と似ている特徴と、
一般の現実として頭の中に築かれたものとを、言語の特徴と結び付けている。
外の世界ではなく、頭の中にある現実の様式をスキーマ(schema)と言う。
文脈とは、スキーマの構造物である。
語用論の意味の達成は、
記号の言語学的要素と、文脈のスキーマの要素の調和の問題である。
Brezil scored just before the final whistle.
"brazil"と言う単語は、熱帯雨林、アマゾン、コーヒーなどを彷彿とさせるが、
なにより、サッカーチームの優秀さで名高い国である。
このサッカーのスキーマが、"scored"や"final whistle"という表現が参照した全ての可能性を導くだろう。
The parson may object to it.
"it"とは何だろうかと考えたとき、まず教会に関係することが思い浮かぶ。
聖歌隊を新たに呼んだり、教会の募金の使い道などである。
このとき、"the parson"の聖職者と言う役割が重要視され、
その他の特徴は無視される。
牧師のどんな特徴が重要視されるかは、
(愛煙家だったり、独身であったり、大学卒業生だったり…)
すべては、"it"が何を参照しているかによる。
スキーマにおいて関係しているものに集中することによって、
話し手も聞き手も同じ文脈と結びついたとき、参照が成立する。
力の達成についても同様である。
この文は、警告になりうると昨日述べたが、
どのようにそんな影響力が推測されるのだろうか。
ある共同体の人たちは、
世界の成り立ちから、発話行為など社会的行動の慣習的方法まで、
共通の前提を持っている。
これは彼らの社会的集団のメンバーとしての文化的アイデンティティーを定義する。
なので、この相互作用の中にいる人たちは、
警告の発話内行為として働く言葉が、どのような状況にあるかを知っている。
つまり、
状況が話し手のコントロールの及ばないところに所属し、
話し手が傍観者としての役割を果たしていると、聞き手が知っているとき、警告となる。
一方、
話し手が、第一人称に感化されており、
第一人称の代わりに話し手がしゃべっていると、聞き手が知っているとき、脅しとなる。
この一文だけでは曖昧すぎて分かりにくい。
聞き手は、文脈に関係ないと思われる情報をとりのぞき、
それでも残ったたくさんの可能性を減らさなければならない。
この曖昧さは、語用論の在り方でもある。
話し手と聞き手は意味の交渉(negotiation)をして、
参照の合意、発話内行為の様相を築く。
A: The parson may object to it.
B: Parson? whitch parson?
A: The Reverend Sponer.
B: But he isn't a member. And he dosen't smoke anyway.
A: what's that got to do with the new biycicle shed?
B: I thought you were talking about the smoking ban. など。
このような交渉で問題点が浮上してくる。
はじめに、これは想像上の、記録された対話として提示されたが、
多くの特徴が記録されていない、ということだ。
例えば、声色や声の高さ、ジェスチャー、表情、視線といった、
パラ言語学(paralinguistics)的特徴である。
これらは文脈と密接に関係しており、何が起こっているかを判断する決定打となる。
記録されたているのは、相互作用の外的な生成物であり、
参加者が経験するような、現実の対話の過程ではない。
ふたつめは、簡単な意味単位から始めたとしても、
もっと複雑なものの考察へと、深めなてゆかなければならない、ということだ。
個別な言葉として発話行為を対象としても、
そんなにきっちりと区別される発話行為は現実に起こらない。
交代で行われる意思疎通と、場の共有において、
意味は、対話の参加者の同意と一緒に、調節される。
主な語用論の問題は、どのように会話が調節されるのかである。
交渉の基本原則は何なのか、
どのように、人々は結合に協力しているのか。
情報伝達をするとき、人はある種の制限に組み込まれている。
それによって一人称の意図と二人称の判断が一致する。
これを協調の原理(cooprative principle)に同意していると言う。
意味論的な語彙の言語の潜在力に、語用論的な現実が与えられることはない。
そうするには、
人々が発話によって意味しているものが、
言語自体と関係があると認めなければならない。
人々が参加する対話は、意見の一致によって終わるだろう。
この時協調は、対立の邪魔をしない。
寧ろ、協調の原理によってのみ、
人は異議申し立てをしたり、対立関係を築くことが出来る。
共通の言語コードを共有していなければならない。
情報伝達の慣習の一致において、その言語コードを参考に出来なければならない。
A: The parson may object to it.
B: I don't think you need worry about that.
A: Well perhaps you should. As the chair I must tell you that he will have my support.
B: Yes, and we all know why.
A: That remark is out of order and I must ask you to withdraw it.
B: Don't be such a pompous ass.
上の例では、明らかに、二人の間に対立が生じている。
しかしそれは、
共通のコードとしての英語の意味論的しきたりと、
コードの使用される方法を規制する、統語論的しきたりに、
従っているから生じるのである。
言葉同士の参照の輪を築く、結束構造(cohesion)の一般的なしきたりがある。
この二人は、"that"や"it"が前に現れているものを参照し、
"you should"や"we all know why"が、
前の会話を参照することで完成する、省略や曖昧な表現であることを認識する。
言葉のやり取りそのものを規制する、交代(turn-taking)の慣習もある。
ひとつは、一回の発言の最後の中断の合図や、
話し手の役割の以降の認識である。
その他の慣習には、順番に関することだけではなく、
次の人がどんな動きをするか、ということに関する。
例えば、
質問するときは、相手に順番を譲り、答える権利を与える。
この時、慣習的に返事が要求される。
この点で、質問と答えは、交代の合図に依存し、
隣接対(adjacency pair)と呼ばれるものを構成する。
発言の関係を制限する一般的な慣習もある。
具体的には、情報交換の異なる方法とジャンル(genre)において、
どのように発話行為が結合するかの定義である。
上の会話文の例では、公式な会合の特徴がある。
この分野の慣習では、順番を操作し、発言を制限する権力を持った議長に、
決定権が与えられる。
この時Bが何を知り、何をしようとしているのかということは、語用論的な説明である。
人々が特定の共同体で慣習的に持っている概略的知識に、
どうやって言語が従事しているか、に関係している。
語用論は、人々がどのように共同体に順応するかという研究である。
しかし、語用論は、このよう慣習が
個人的な独創性に避けられ、消滅させられる方法にも関与している。
言語の使用は順応の必然的な行動である。
自身を主張し、他人を操作するアイデンティティーの行動でもある。
語用論は、人々がどのように意味をやり取りし、
人々がどのように社会的関係を交換するかに、関与している。
語用論は、書き言葉にも適応される。
話し言葉のような、即時的な相互の意味のやり取りや調節はないが、
書き手は、可能性のある読み手を投影し、彼らの反応を予想しなければならない。
読み手は、書き手と協力し、自分達の対話を活性化させなければならない。
書き言葉においても、話し言葉においても、
語用論は、人々が言語をどう理解するか、ということに関するものである。
妥当性を失わなければ、
他の知的な疑問の領域と同じように、
構築された考えに疑問を投げかけ、新しい見解を求め続けるだろう。
その本質は、ある程度の不安定性を含んでいる。
言語学に、安全でもっともらしい抽象の共通基盤があっても、
それを越えたところに、学問の領域と目的が何であるかに関する、競い合う緒論や異なる見解と修正、意見の不一致と論争が存在する。
昨今の議論では特に、三つの問題がある。
ひとつは、
この学問の定義に関する、第二章で述べた、理想化の問題である。
ふたつめは、
言語データの性質に関する、巨大な言語資料を分析のためのコンピュータープログラムのはって井の重要性に関する問題である。
みっつめは、
言語学の疑問が日常生活の現実的な問題として妥当であるための、責任と範囲の問題である。
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