忍者ブログ
[35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Text structure
もしも、テキストの部分ごとの構造的関係や移行が明確であれば、読み手と聞き手はテキストをもっと簡単に読むことが出来るだろう。
これは典型的に、談話標識(discourse marker)によって行われている。テキストの調節を主な機能とする語や句のことである。例えば、'on the other hand', 'similarly', 'by the way'などである。
英語の談話標識は、改まった話し言葉や書き言葉と全く異なる、使用域(register)に特有なものが多い。
そして、談話標識の正確な機能と意味を分析することは、簡単なことではない。なぜなら、'actually'や'I mean'のように、英語の会話で用いられるものはとても多義的で、整理した定義が出来ないからである。
他の言語でも、この分析は問題となっている。ドイツ語には、'ja'や'doch', 'denn'などの広い範囲の意味を持つ法の小詞がある。これらの小詞はとても曖昧な、構造的なニュアンスと、話者の気持ちを表す。
 
話し言葉によるテキストは、よく、広範囲の構造的装置を含んだ、会話のパートナーと一緒に構築されている。
特定の談話標識によって、会話を引き継いだり、話題を変えたり、返事を求めたりする。または、上昇、下降の抑揚を使い分けて、まだ話を続けるのか、聞き手に番を譲るのかを示唆することが出来る。
また、文法的な構造が、はっきりと会話の流れを調節することもある。主語+助動詞のグループである。'Isn't it?'のような質問の目印が、反応を求め、'Did you really?'のような返事を求める質問文が、注目を促す。そして、'Yes, I have.'のような短い返事である。
話し手はまた、形式的な挿入を多く使う。'Hi', 'Yes', 'OK', 'Sorry', 'Look', 'Please', 'Damn'。これらは実際、ひとつの語の分類を成している。
 
Face
話し手の文脈の中心は聞き手であり、文法が、話し手と聞き手の相互作用を促し、両者の不和を最小限にするために、会話を調整する。
日本語やタイ語などの言語は、対話者に対する尊敬と礼儀を表す、複雑な敬語(honorific)装置を持っている。
一方、英語では尊敬の表現は限られており、いくつか、尊敬や思いやりを表現する文法的な付属品がある。例えば、聞き手に選択権があることを示すために、要望は質問で表現する。'Please help me.'より'Can you help me for a moment?'が良い。
また、'I would think...'や'I was wonder...'のような、よそよそしい動詞の形は、より間接的に、主張や要望や質問を表現する。
抑揚も思いやりを表現するのに使われる。上昇形の質問文は相手への配慮を示し、下降形の抑揚をもつ質問分は断定的に聞こえる。
書き手も、もちろん、読み手に対して十分な尊敬を示す方法が必要である。例えば、'of course'は、読み手が実際には知らないだろう知識や見識を、持っていると信用する標識である。そして、これは、比較的明確で良く知られた情報を与える時に、書き手が読み手を見下しているような効果を減少させる。
 
Formal and informal language
おそらく、全ての言語で、公式な場と非公式な場の使用域(register)の違いがあるだろう。
話し言葉も書き言葉も、多かれ少なかれ、公式なものとなる。しかし、自然に、公式な使用域は書き言葉と、非公式な使用域は話し言葉と関連することが多い。
そして公式と非公式の差は、おそらく、社会が階層となって別れている範囲の影響を受けるだろう。
英語では、19世紀から続く民主主義化により、差が狭くなった。
一方、ある状況下では、この使用域が完全に別れてしまうことがある。
中世のラテン語の発達に従って、公式と非公式の差が広まり、土着の非公式な日常語(vernacular)が、イタリア語やポルトガル語や、ルーマニア語等の、新しい言語となったのである。そしてそれぞれの言語に、公式と非公式の使用域が発展した。
 
公式非公式の差は、語彙の違いによって表現されることが多い。英語では、'start/commence'や'tell/inform'などがある。
文法的に違いを表すこともある。フランス語では、実質的に書き言葉でしか用いられない過去時制が存在する。アラビア語には、公式的な話し言葉で使われる、主格、対格、与格をあらわす語尾がある。英語には、助動詞句の短縮や句動詞比較的話し言葉によく用いられる、非公式的と感じさせるような文法構造がある。
英語では'have got to', 'be going to', 'had better'は話し言葉で良く用いられる助動詞句であるし、また、決して書き言葉に用いられないような条件文や関係詞構文などもある。
書き言葉の伝統の権威により、話し言葉特有の文法は間違いとして非難されることが多い。
しかし、それらは何世紀もの間、口語英語の現在形の標準語である。'between you and I'や'Me and Alice went...'のような用法もそうだ。不定の単数の代名詞としての'they'の使用はとても古い。
現在の話し言葉と書き言葉の権威的な差の縮小により、これらの形も受け入れられやすくなって来ている。
 
Special kind of text
ある種のテキストは、一般的なテキストで用いられる文法規範とは異なる、独特な構造を持っていることがある。新聞の見出しや広告など、短縮の多いテキストは、冠詞や助動詞のような文法的標識が書けている場合が多い。
また、文学的なテキストは、意識的に通常の文法構造をもてあそんだり、無視したりする。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

PR
1000 years of change in English
古英語の英雄詩「ベオウルフ」は、約1000年前に書かれたものである。以下のように始まる。
 Hwæt! We Gardena in geardagum theodcyninga thrym gefrunon hu ða æthelingas ellen fremedom.
 
14世紀初頭に書かれた「ガーウェイン卿と緑の騎士」からの中期英語は、以下のようなものである。
 Wrothe wynde of the welkyn weastelez with the sunne, the leuez lancen from the lynde and lygten on the grounde, and al grayes the gres that grene watz ere; ... and thus yirnez the yere in yisterdayez mony.
 
「ベオウルフ」の古英語は、語彙も文法も完全に違う言語である。短い冒頭分だけでも、現代英語と異なるさまざまな特徴が見て取れる。
まず、属格、与格の複数名詞の形があり、複数の動詞の語尾が存在する。語順は比較的自由だが、主語-目的語-動詞の構造が多い。
一方、中期英語は、「ベオウルフ」から約350年後のものであるが、「英語」と分かる文章である。
もちろん、現代英語と異なる点は多いが、ほとんどの、複雑な屈折システムが無くなっている。そして、語順も今日のものとかなり近い。
 
Mechanisms of change
全ての言語が何回も変化を繰り替えしている。
この過程は、完成に向かった進化であると考えられることが多い。この考えでは、言語は使用者によって上品で正確なコミュニケーションの道具になされ、斬新的に洗練されている。
しかし、ほとんどの場合、言語の変化は退化と見なされる。言語は理想の姿から離れてゆき、文法規則は無視され、模範は弱化し、重要な差異やニュアンスが無くなる。
どちらの考えも、言語システムに良い悪いがあることを当然のこととして見なしている。原始的なものと、進化したものである。
しかし実際には、ピジン(pidgin)の例を抜かせば、原始の言語などというものは存在しないし、言語学者は、言語構造の類型の相関関係の研究をしないし、効き目のある表現の能力の研究もしない。
言語の変化は、同時に起こる、下降と上昇の動きの産物と考えるのが良いだろう。この動きは再編成や再生産、再創造を含んでいる。
しかし一方で、表現の形式は何度も慣例化され、強い印象や正確さが失われた。だが、言語使用者は常に、すばらしい表現のために、革新を続けて来た。
シェイクスピアは効果の経済性を追求し、言語の形式がだんだん風化されていった。聞き手が求める分かりやすさのニーズと均衡し、ある部分の欠如はその他のもので補われているのである。
大幅な簡略化をもたらす変化もあるし、途方も無い複雑化をもたらす変化もある。
コミュニケーションの効率に基づく観点では、このような変遷の結果は中性である。概して、言語は、その使用者の目的に達成するための手段を提供し続けるだろう。
 
Analogy
多くの言語の変化は類推(analogy)を含んでいる。
まるで言語が自身を整理するかのように、形式をその他のものに変更している。
例えば、動詞'like'は元来、非人称の主語をもち、人称の目的語をとっていた。しかし、より一般的動詞の使用法である、人称を主語とする用法で'like'が用いられるようになり、現在の用法となった。
古英語の複数形は一般化された。そして今、'shoen'が'shoes'となったように、外来語に置いても統一の動きがある。'formulae'のかわりに'fomulas'が用いられている。
現代英語の話し言葉でみられる類推に、'would'の用法がある。今、だんだん、条件文において、副文と主文両方に'would'をおくことが増えている。'It would be better if they would tell everybody in advance.'そして、ドイツ語、フランス語、スペイン語にも同様な変化が見られる。
もう1つ、'may'の使用の拡大もある。最近までは、'may have happend'と言えば、「たぶん、起こっただろう」という意味しかなかった。しかし、最近の'may have ...'の使用が多くなり、実現しなかった可能性を意味するようになった。
 
小さな機能語を用いた複雑なシステムは特に、まるで小さな差異を維持することが苦労の割に得るものが少ないように、でたらめな類推によって変わりやすい。
このような変化が話者によって繰り返されたとき、これが制度化される。英語はだんだん、'head'のあとの前置詞は'for'から'to'に置き換わるのである。例えば'The ship is now heading to Liverpool.'のように。
現在起こっている、小詞や機能語の余分な示差性の崩壊は、所有や複数形の綴りの混同として広まっている。例えば,、クリスマスカードに書かれた'Seasons Greeting's'のようなものだ。正しくは'Season's Greatings'である。
 
類推は言語学的共同体の中でも行われている。
権威を持った言語がその他の種類のものに、悪名高く知れ渡る程に、影響を与えている。
英語の各方言は、だんだん標準英語に収束していっている。一方、イギリス英語自体がだんだん、アメリカ英語の影響を受けている。この中には、接続詞'as'の代わる'like'の使用や、'do'の使用の拡大などがある。
類推的な変化は言語間を越え、まったく似てない言語が文法を共有することさえもある。特に、バイリンガル共同体において、1つの言語が他方の言語の影響を受けて変化する。スコットランド、ウェールズ、アイルランドの英語は基層に、その地域のケルト語の文法を受け継いでいる。ルーマニア語、アラビア語、ブルガリア語は遠い関係の言語だが、みな、屈折する、名詞に付く定冠詞を持っている。多言語が使用されているインドのKupwarの村では、関係性の無いカナラ語(Kannada)とウルドゥー語(Urdu)が同じ方向へと収束していっている。
 
Phonetic erosion
もっとも強力な言語変化の要因は、発音の変化である。
話し手は自然に、音節や単語の終わりを、始めよりも弱く発音する。言いにくい発音を単純化し、強勢の無い音節を縮小する。結果的に音声が弱まり無くなってしまう。
ずっと昔に綴りが整えられた言語は、発音されない音声を表示する無音の文字が出没する。英語の'si(gh)t'、フランス語の'pe(n)e(ent)'などである。
長い時間をかけて、この過程が文法を変えることもある。
もしも、屈折が変化したら、この欠如を補うためにその他の表現を見つけなければならない。例えば、語順や機能語の使用を増やすことである。アングロサクソン語と現代英語の違いは、この点にある。
現代英語では、発音の変化が、ある状況下での助動詞を少しずつ削り取っている。完了の'have'や、疑問文での進行形'are'などだ。
また、動詞+不定詞構文に置いて、'to'が先行する動詞とくっつく変化もある。'hafta'や'wanna'などである。
もしもこれらの個別的な変化が十分に普及したら、最終的に文法システムの再構築を引き起こす。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

Grammaticalization
多くの文法は語彙から始まる。
発音の変化により生じた差異を埋めるためにも、言語の表現力を高める場合にも、典型的に、既にある名詞や形容詞等の単語の文法化(grammaticalization)によって、新たな文法要素が作り出される。
例えば、英語の'have, 'do', 'will'がそうだ。これらの「所有」、「行動」、「意志」という元来の意味が完全に取り除かれ、助動詞として文法的機能を果たしている。
文法化は普遍的な工程であり、世界中の言語で特徴的な類似点がある。文法化された単語が使用される目的、機能を変更する助動詞や冠詞、屈折に変化してゆく筋道。??
 
文法化の施される語は、ほぼいつも、もっとも一般的な意味を持つ。'perform'ではなく'do'であるし、'possess'でははく'have'だ。
文法化は典型的に、文字通りの意味を追うだけでなく、広範囲でもっとぼんやりとした感覚で理解出来るような、曖昧な文脈で行われる。英語の未来を表す'going to'がそうだ。'I am going to sell my cow'これは市場に行くと言う移動を表しているだけでなく、本人の意志もあらわす。
時を経て、意志の意味がもっと強くなり、そして移動を含まない文脈でも使用されるようになった。そして現在の、完全な文法化がさてたものとなった。
'go'や'come'などの移動を表す動詞からの例をあげたが、未来を表す助動詞は、be動詞や「変化」「望み」「義務」「好み」などの意味を持つ動詞の文法化によるものも普遍的である。イタリア語では、すぐに何かが起こりそうなとき、「~するために立つ」と言う。
その他の未来を表す形は、'have'である。ラテン語では、不定の'habere(to have)'の形式で未来を表した。例えば、'cantare habeo(sing to have)'は'I will sing'の意味である。だんだんラテン語のこの形は、屈折語尾として変化してゆく。'cantare habeo'はイタリア語で'canteò'となり、フランス語では'je chanterai'となった。
受け身の助動詞はbe動詞や、「変化」「残存」「位置」を表す動詞などから文法化される。また、多くの言語で過去を表す標識が、「終了」の動詞から作られている。「方向」を表す語が完了を示し、「知識」を示す語が能力を示す。
多くのヨーロッパの言語で、指示詞が抽象的になり、冠詞をなす。ラテン語の'ille(that)'がフランス語では'le'やスペイン語'el'の冠詞となった。
英語とフランス語の否定を表す副詞は、連語の文法化によるものである。'not'は'na wiht(no thing)'に由来する。
 
面白い現代英語の文法化として、'yez'や'you all'などの方言と平衡して、'you guys'が単数'you'と対照的に、二人称複数代名詞の役割を果たしていることである。
また、新しい2種類の助動詞が発展している。'be set to'は報道の文章で、'be about to'と似たような用法で広く使用されている。'see'が文字通りの意味が薄れ、'there is'構文のかわりに用いられている。例えば、'The last half year has seen a significant reduction on accident rates.'は'there has been a significant reduction on accident rates in last half year.'の意味である。
 
文法化は普通一方向である。意味は抽象的に一般的になり、同時に共通して形態も発音も縮小される。
ヨーロッパの言語の過去時制の連語は、進行する意味の変化の良い例である。
典型的には、'have+過去形動詞'は最初、現在はもう終わったという結果の意味であった。'I have six boxes packed.'である。これが、現在との関係性を保ったまま、次第に現在の意味から過去の意味に移行した。'I have packed six boxes.'これが現代英語と現代スペイン語に置ける意味である。
もっと発展すると、フランス語とイタリア語、ドイツ語のように、現在との関係性は消え、単なる過去時制として使用されるようになる。
また、'I've'という形式的な縮小は意味の変化と同時に起こる。英語の過去法助動詞も、'coulda'や'whoulda'など、形式的な縮小が起こっている。そして'going to'もそうだ。非標準的な'gonna'は発音の変化を反映しているが、実際はとても広範囲に広がり、'I'm going to'がもとの/aŋnə/、'you're goung to'に対応する/jəgnə/など、代名詞と結合した破格な語を作り出している。
 
Speed of change
言語の変化は、もちろん、一晩で起きるものではないが、小規模な変化はそれなりの速さで普及する。特に、今日のような世界規模の急速な情報化の時代ではそうだ。ここ10年ぐらいの出来事であるが、アメリカの日常語が、イギリスの若者達の間で使われている。
しかし、言語システムをかえるような大きな変化は、数世紀の時間がかかる。
英語の進行形は、数百年の時をかけて使われるようになって来たが、今でも進行形に用いられない動詞がある。しかし、この抵抗もだんだん弱まって来た。最近は'I'm understanding maths much better now.'という表現がある。
比較級と最上級の形も同じ道筋をたどっている。18世紀までは3音節以上の形容詞にも'-er', '-st'の語尾が可能であったが、やがて'more'と'most'が付くようになった。しかし最近は、2音節の形容詞にも'more'と'most'を使うようになった。
また英語の法助動詞も、わずかに変化している。'may'と'must'の使用が減少しているのである。
 
ある言語はとてもゆっくり変化する。例えば、アイスランド人は、800年前の文章を苦もなく読むことが出来る。
また、言語間の接触によって急速に変化することもある。南アフリカの植民地のオランダ人入植者は、多くの言語に触れ、文法の簡略化が進み、ヨーロッパのオランダ語とは違う言語、アフリカーンス語(Afrikaans)になった。
章の始めで述べた、300年あまりの劇的な英語の変化は、ノルマン・コンクエスト語のフランス語の影響によるものである。その後のよりゆっくりした英語の歩みは文学の発展によるものである。文学が、言語の標準化を押し進め、変化を防いだのである。
 
How did it all start?
長い長い間に、言語の変化は繰り返して現れる。
まず、単語が文法化されて助動詞や小さな機能語になる。これらが名詞と動詞などの結合が屈折を生む。発音の変化によって、価値を失った屈折が削除される。消えた屈折の機能を補うために、新しい助動詞や機能語が作られる。そしてそれらが、名詞や動詞と結合する。
最初の文法化の過程は、ピジン(pidgin)から新たなクレオール言語(creole)の発展の方法で明らかに観察することが出来る。
ピジンは情報伝達を活性化するための、貿易用の乏しい交渉言語であり、典型的には、英語やフランス語などの語彙を、地元の言語の文法に沿ってつぎはぎにつなぎ合わせたもので構成されている。ピジンは誰の母語でもなし、言語としての機能も欠如している。
しかし、ハワイ、ニューギニア、カリブ海などの世界中の地域で、ピジンが全てのコミュニケーションに適応され、複雑で規則的な文法をもった、完全な言語として発展した。それがクレオール言語である。
クレオール言語には共通点がいくつかある。たとえば、動詞、名詞、形容詞、副詞を文法化して機能語や助動詞に変形し、時制を表している。
私たちは、どのようにして言語が生まれるかを研究することは出来ないが、ピジンからクレオール言語への発展が、言語の進化の過程を捉え、もっと原始的で文法もなく表現も限られた最初の言語の発展を明らかにすることが出来ると、多くの言語学者が信じている。
そう考えると、文法化は、言語の変体の重要な役割を果たしている。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

Language under attack
 言語の変化は自然で普遍的な現象である。しかし人々は大変なことだと心配する。
 イギリスの新聞や報道は定期的に、文法に従わないことや、読み書き能力の低下、有害なアメリカ英語の使用、有識者達の粗悪な文法的違反などへの不満を掲載する。
 我々の言語遺産が脅かされているようである。恒常な警戒をしなければ、英語は衰退し腐敗するだろう。
 1985年、当時の政治の重要人物であるテビットは「一度基準から外れれば、犯罪に関わるだろう」と発言をしている。
 イギリスだけではない。フランスのル・モンド誌が定期的に編集者達の、フランス語に起こっていることを嘆く記事を出版している。日本語は、若者の音節の削除や文法を無視した敬語の助詞の重複、外来語の氾濫によって乱されている。ガラル・アミンは'Whatever happened to the Egiptians?'にこう書いている。
 「50年程前のエジプト人たちがアラビア語に対して抱いていた尊敬と尊重を覚えている人たちは、最近のアラビア語の扱いを嘆かざるを得ない。人々はかつて、よいアラビア語を書くことが出来、アラビア語文法を良く知っていることが誇りであった。しかし、すべて過去のことである。」
 多くの国でこのような嘆きが聞かれる。ともかく、人々はもう、正しく自分の言語を使うことは出来ないようだ。
 
 What do we mean by 'incorrect'?
 人が、誰かの言語を間違っていると言う時、その人は以下の5の項目を参照しているのだろう。
 1、外国人学習者の間違い
 2、母語話者の間違い
 3、方言の使用
 4、揺れのある使用方法
 5、日常語や俗語の形式
 
 言語を専門にしていない人々は、これらをすべて「まちがった文法」とし、文法書に載っているような1つの正しい言語が存在するのだと思うだろう。そして、規範から逸脱したものは間違いであり、不用心で、無関心で、浅はかで、教養がない印だと、考えるだろう。
 しかし上に述べたように、言語行為のタイプによって明らかな違いが存在し、どれも、「間違い」と言える証拠はない。
 大切なことは、バリエーションと間違いを区別しなければならないということだ。
 
 Mistake
 青年を過ぎたら、新しい言語を完璧に習得する人はほとんどいない。従って、非母語話者が間違いを犯すのは当然のことである。もちろん、外国語の教師もそうだ。
 さまざまな国の英語学習者の典型的な間違いがある。'I not understund.', 'this book was writing by my uncle.', 'New car must keep in garage.'などだ。
 これらは、言いたいことは分かるが、明らかに間違いである。それぞれの文法が矛盾しており、そして、どんなに頑張っても、どんなに動転していても、母語話者が犯しそうも無い間違いである。
 
 母語話者も同じように間違いを犯す。舌をかんだり、言い間違いもある。複雑な構造を間違えることもある。例えば、'Teenage driver are twice as likely to have accidents than the average.'のような文を作る。続けて発話しなければならないような、実況や演説によく起こる。
 
 間違いは故郷を離れた、まだ習得していない言語を使用している時に良く起こる。
 数年前、オックスフォードのパン屋に'This is a food premise. Please do not smoke.'という看板があった。この看板を書いた人は明らかに、この場合'premises'は複数形でのみ使用されることを知らなかった。改まった表現はこのような問題が多い。
 書き言葉は、話し言葉にみられないような独特な文法的性質を持っている。従って、ある意味で、話し言葉は、言語を学ぶ全ての人にとって目新しく不慣れな方言なのである。
 
 Variation
方言は、明らかに上に述べた間違いとは、異なるものである。彼らは間違いを犯していないし、異国の地に来て慣れない言語を話している訳でもない。
 誰が彼らの文法に関して何を言ってやりたいと思っていても、彼らは子供の頃に習得し、慣れ親しんだ構造のを使っているのであって、彼らの中での正しく、適切な方法で矛盾無く使用されているのである。
 このような発話は、バリエーションの例である。言語的に、普通で、全く問題ない。
言語は時間の中で変化し、地域によって変化し、社会階層のなかで変化し、個人個人で異なり、個人使用も異なる。
 
Dialect forms
 言語とは、陸軍と海軍を持つ方言のことである。(マックス・ヴァインライヒ)
 方言:政府、学校、中流階級、法、そして軍事力以外の全てを持った言語の種類(トム・マッカーサー)
 
方言は、しばしば、言語の崩れた形だと考えられることがある。正しく文法を習わなかったり、うまくいかなくて悩んだことが無い、無学で不注意な人々が使う間違った言葉だであると。
しかし、実際は、英語の方言には長い歴史がある。遡れば、中世にブリテン島を占拠したゲルマン人とスカンディナビア人の侵略者たちの話し方に行き着く。
加えて言語学的な分析により、良く出来た方言は、たとえ標準とかけ離れていても、かなり豊かでシステマティックな文法を持っていることがわかった。
面白いことに、人々は遠くは慣れた方言に関しては、この考えを受け入れやすい。
ブリテン島の南からやって来た人の言葉は、標準文法からの逸脱だと考えるが、スコットランド地方から来た人の言葉は、独自の規則をもった別の言語のバラエティーだと考える。南方の方言も、スコットランド地方と同様に歴史的な根拠があり、彼らのルールの中に従った正しい言葉を使用しているが、隣接するの標準英語話者を困らせているのである。
 
 方言が怠惰で不合理であるという信条は根拠が無い。方言が標準文法よりも簡単ということは出来ない。
 学校の先生は'I didn't do nothing.'を間違っていると言うだろう。英語では二重否定は肯定を示すが、フランス語は二重否定を使う。実際、二重否定は言語ごとにそれぞれであり、多くの言語で使用されている。現代標準英語では用いられないが、古英語と、そしていくつかの方言では使用されているのである。
 
 標準言語というのは、言語学的に良くない。
 それはただ、政治や教育などの目的に使用されている言語のバリエーションである。'I want'が本物で、'I wants'がそれの崩壊した形だとか、そういうことは何も無い。ただ、'I want'がたまたま、歴史的に権力を持った先祖が使っていた形であっただけである。
878年に アルフレッド大王の勝利により、ロンドンに建設した政府がブリテン島全体を治めるようになり、結果的に、ノルマンフランス語の影響を受けたロンドン地方の方言が、政府、法律、商業、教育、文学の言葉として採用されたのである。もし、アルフレッド大王がバイキングに負けていたら、きっとブリテン島の首都はヨークになっており、今の英語とは全く異なる言語がイギリスで使用されていただろう。
 
 Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

Alternative usage
慣用法もまた、方言と同じように変化する。
標準英語話者でも、ある人は'different from'というし、その他の人は'different to'という。同じように、'under these circumstances'と言う人も居れば、'in these circumstances'と言う人も居る。'less people'でも'fewer people'でもどちらでも良い。'Shall', 'I were', 'whilst', 'whom'を使う人もいるが、他の人達はほとんど使わない。
これらは言語の変化によるものである。新しい用法は、古い用法を一晩で消し去ったりはしない。同じ意味を表すための複数の選択肢が共存しているのである。実際、数世紀この状態が続くことがあり、'different from'と'different to'の共存は400年前から続いている。
場面の違いで個人の中にもバリエーションが生じる。友達同士で方言で話していても、お店の店員には標準語で改まった形で話しかけるだろう。普段よく使う'I've'や'don't'のような短縮も、公式な場面では'I have'、'do not'を使う。
方言がそうであるように、これらのバリエーションも価値判断の基準となりやすい。
 
おそらく、より古い形式だとか伝統的だとか公式文書の文法だとか、そういう理由で、1つか2つの形式がよりふさわしいと判断される。
日常的な言葉は、公式な文章と違うだけで、構造や表現が間違っているのではない。この異なるスタイルの言語を状況に合わせて用いることが出来る能力は、言語運用の問題である。
そしてこの敵対する2つの形式が標準語話者の間で広く話されているのであれば、この2つの形式が普及しているということが出来る。永遠に「正しい文法」が刻み込まれた石碑は存在しないのである。
 
この考えを受け入れがたいと思う人もいるだろう。これは、なんでも良い、と言っているのと同じで、標準なんてものを定める方法が無いのだ。
確かに、慣用法は唯一の規範にはなり得ず、また、楽な方へと流れるものである。外的な権威が必要だ。
文法、辞書、たくさんの慣用指針があるが、それらはなぜ存在するのか?規則を示しているのではないのだろうか?
 
Authorities; description and prescription rules
'authority'という言葉は、真実と力と関係している。主語としての'authority'は信頼出来る情報を与えてくれる人達で、'authority'と持つ人は、何をすべきで、何をすべきでないのかを教えてくれる。
従って、言語学的な'authority'は、2種類の規則を作り出す。公式の説明書(description)と独裁的な規範(prescription)である。
 
記述的な規則は単純に、言語学的な正しさのことである。言語が作り出す自らのルールである。
標準英語の三人称単数現在の動詞には'-s'が付くとか、現在は目的語として'who'と'whom'両方が使われるとか、アメリカ南部とスコットランド地方の英語では法助動詞の二重が可能であるとか、ロシア語の名詞は6個の格変化があるとか、標準中国語では'ma'をつければ疑問文になるとかである。
これらのルールは言語が適切に機能するように意図的に作られたものではない。言語の進化の産物であり、使用者も気づかない複雑なメカニズムから導き出されたもので、意図的に操作することは出来ない。
一方、規範的な規則は、言語学的な規定のことである。言語は一般化するべきで、整頓されて、乱れを防がなければならないと言う信念で、個人が考案した規則である。これらの規則は、母語話者が書いた慣用法辞典などに現れる。
多くのものが、18、19世紀の英語文法を拠り所にしている。なぜなら、多くの著者が、英語文法は、すばらしい言語であるラテン語の文法と似ているべきであると、考えているからである。
これらの規則は、教育的な伝統にも用いられる。ラテン語の動詞の不定形は一単語だったので、英語でも、'to'と動詞の間に、副詞などその他の単語を挿入することはしてはいけないとか、ラテン語の文章がそうであったように、英語の文章も前置詞で終わってはいけないとかいう迷信である。
 
Problems with prescriptive rules
規範的な規則は、それを作った人達の信念を押し付ける。真実ではなく、意見である。
分離不定詞に関する規則も、前置詞の位置に関する規則も、英語文法の現実に基づいていない。推理小説家レイモンド・チャンドラーは、原稿の分離不定詞を編集者が修正する事に立腹し、「私が不定詞を分けたら、神が地獄に落とそうが、分けたままにしろ」と伝えた。
また、規範的な規則は、'they, them, their'の三人称単数の代名詞としての用法を、'They'は複数だという非論理的なことを根拠に非難している。'they'は、'you'と同じように、複数と単数の機能を持つ。'If sombody phones, tell them I'm not.'何世紀も使用されて来た用法なので、英文法はこれを認めなければならない。
 
論理的とは、整理整頓のことだ。
標準英語の典型である'It's me.'や'John and me saw a good film.'という文章は、どちらの場合も論理的に'me'は主格であるべきという理由で非難される。しかし、'me'と'I'の選択は複雑である。統語論的な環境と形式レベルに依るものであって、単純に、すっきりさせる事は出来ないし、ましてやラテン語の代名詞にも共通して適用されるような規則は無い。
格のシステムは言語ごとに異なっており、そこから逸脱するような、観念的で抽象的な構造など存在しないのだ。多くの言語は、ヨーロッパの主語-述語構造とまったく違う方法で組織されている。また、他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格で、他動詞の主語が異なる格をもつ文法もある。
'John and me saw....'の文章を見て、「動作主は主格」という論理的な立場で'John and I saw....'が正しいと言う事は、「鳥は飛ぶ」からペンギンも飛ぶ、と主張しているようなものだ。
 
また、規範的な規則はよく歴史に訴える。
英語の'different'はラテン語の'differre'から派生したもので、意味は'to carry away'である。だから、英語の前置詞は'to'ではなく'from'である、と主張する。
しかし、歴史は、正しい使用法も論理も与えてはくれない。このような主張は、現行の文法と語彙をほとんどを変えてしまう。'do'無しの疑問文で、動詞は節の最後に置き、'lady'の意味は、パン屋だ。
言語がどのように機能しているかを理解するために一番適切なのは、現在の言語を観察する事であって、過去の言語ではない。
 
規範的な規則は、自分自身の慣性に依って発展する。
若い頃に規範的規則を一生懸命勉強した人達は、彼らの地位を示すそれらの知識が価値を減らしてゆく事に落胆するだろう。
スティーブン・ピンカーが著書「言語を生み出す本能(The Language Instinct)」の中で指摘しているように、多くの規範的規則は心理学的にあまりに不自然なので、このように正しい教育を受けて来た人だけが認める事が出来きる。そして'sh'を発音出来ないエブライム人を区別するシボレテ(shibbileth)のように、無学な大衆からエリートを抜き出すのだ。
 
Ripples on the ocean
学校でしっかり文法を習ったから自分は言語を正しく使っていると思っている人は、文法の出典の膨大な量を見て驚くだろう。そして、学校文法がどんなに小さい範囲のメカニズムであったかに気づくだろう。日常の会話で、話し手は、素早く、苦労も無く、膨大で複雑な文法的操作し、選択し、そしてこれらの複雑な規則の存在にも気づかずに実行している。そのなかには、学校で習った文法などほとんどない。
学校文法は、せいぜい、句読法と、大雑把な文法カテゴリーの区別と、文体的な疑問文と、間違った文法の指摘をするぐらいだ。これは英語の構造の広大な海の、さざなみ程度に過ぎない。
 
文法的な規範によって、言語が崩れていくのは防止出来るという考えは非現実的である。
言語は、複雑でほとんど知られていないメカニズムと調和して、それ自身で発展する。その発展に影響を与える人はほとんどいない。規範的な規則は少しは慣用を変える事が出来るが、このような宣言は、言語の発展全体の中では対した効果は無い。
そもそも、言語はこのような保護を必要としていない。政治や経済とは違い、言語に悪い変化は無い。太古の昔から「言語が地に落ちた」という言われているが、十分な話者数をもった言語で本当にそうなったものは無い。
しかし、「十分な話者数」の問題がある。
少数派の言語の政治的、経済的機能が、英語のような強力な言語に依って剥奪されている。このような少数派の言語の話者数は減少していく危険があり、実際に消え、言語の死が訪れる。このような言語の使用者が感じる恐怖は、残念ながら、十分に根拠のあるものである。
 
The desire for standardization
もし、言語のバリエーションと変化に対する反対が、間違った情報で非現実的だとするならば、なぜそれが残っているのだろうか。
一部は、おそらく、明らかな理由に依るものだ。年配の影響力のある人々が、彼らの基準と言語使用を存続させようとし、そして、その他のグループや世代のものになるのを食い止めようとするからだ。
新しい音楽の流行やヘアスタイルののように、間違った言語は既存の権威の否定と反抗を象徴するシンボルとなりうる。
しかし、これが全てではない。規範的な規則は、利益のために、標準化を望む人々の本能を反映している。
全ての人々が他者の言葉を簡単に理解出来れば、社会はもっと効率よくなる。そのために、言語の標準化は欠かせない。そして標準語は、統一、価値の共有、所属意識など、社会の象徴的な重みとなるだろう。
広く使われる書き言葉の標準化は、言語の変化を緩め、数世紀前の文章も難なく読めるようになる。短期的には、世代間での不和が少なくなり、長期的には、共同体の文化継承がしやすくなる。
 
The price of standardization
残念だが、標準化はかなり高くつく。
一般的に、標準は書き言葉だけにあるので、非標準語話者は、文学を読み、社会を渡ってゆくために、新しい方言を学ばなければならない。
学校のシステムには壁がある。このような手続きは、どんなに地元で活躍出来ても、2つの方言をうまく使いこなせず、書き言葉の文法的慣習を習得出来なかった人達には、事実上、閉ざされている。
この文脈のなかで、文法的正確さは、その人が規則に従い権威を尊敬していると言う、象徴的な価値を示す。
 
最近の言語教育は、現実的に言語のはたらく仕組みを理解する事を大切にしている。しかし、方言は未だ間違いとされる。
言語の標準化は必然的に、他のバリエーションとともに、その話者の価値をさげる。方言の話者は無学だとか、無知だとか、馬鹿と言われ蔑まれるだろう。このような態度は、大きな損害を与える。
子供達の母語は、個人的社会的アイデンティティーと固く結びつく。そして五歳児の話す言葉も、それがどんな方言であっても、驚く程の知識で構成されている。自動的で無意識の操作で、いまだよく理解されていない複雑で固く組織された言語システムとサブシステムを使いこなしている。
子供達が、学校の授業と社会のなかで、自分は適切な言語を学べなかったのだと、そして言語を教えてくれた両親は、正しい言語を知らない劣った人間であると信じてしまう事は、とても悲しい事である。
 
Michael Swan, Grammar(UK; Oxford University Press, 2005)
---Oxford Introduction to Language Study Series

拍手

言語学が大好きな一般人のブログです。 過去の記事は、軌跡として残しておきます。
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
プロフィール
HN:
てぬ
性別:
女性
自己紹介:
大学院で言語学を学びたい大学生が、日々の勉強の成果を記録してゆく為の、個人サイトでした。
最新コメント
[07/22 てぬ]
[07/20 ren]
[05/24 てぬ]
[05/22 ゆう]
最新トラックバック
バーコード
P R
忍者ブログ [PR]