個別な経験から一般性を推測し、現実の抽象化をしなければならない。
私たちが言語を学ぶときにしていることである。
知識に基づいて行動することが出来ると言うには、
その過程を遡り、実例を理想化できなければならない。
これが、私たちが言語を使用するときに、していることである。
次のシェイクスピアの一文を考えてみる。
I wasted time and now doth time waste me.
まず、ここには9個の単語がある。そして、32個の文字。(延べ数=tokens)
ただ、同じものを一つとして数え直すと、
8種類の単語と、10種類の文字がある。(異なり数=types)
では、"wasted"と"waste"の単語は、どう扱うべきか。
別々に2種類のものと数えるか、同じ種類の単語とみなした方がよのだろうか。
これらを語彙項目(lexical items)として考えるならば、別に考えるべきだ。
"過渡に使う"、"衰弱させる"という違う意味で使われているからだ。
さらに、
母音と子音を別の種類の文字であると考えるならば、
ここには、延べ数19個の子音と13個の母音がある。
もし要素を述べ数として考えるならば、
一般化され抽象化された種の、個別の実例として考えることである。
しかし私たちは異なり数での、要素の区別をすることが出来る。
そこで疑問が浮上する。
私たちは何に基づいて、違う種類だと区別しているのだろうか。
言語学での分類の法則は何なのか。
哲学者アイザイア・バーリンは、すべての哲学的疑問はこの文から始まるとした。
"everything is like something: what is this like?"
私たちは、対象が共通にもっっている特徴を識別し、
異なる特徴を無視することで、
二つのものを同じ種類に分類している。
複数のものがあれば、それらの共通点と相違点を見つけ、
ある基準を設けてそれらを分類することは簡単である。
言語においても同様である。
問題は、どんな類似点が、言語学上重要視されるか、ということだ。
第一章(04/09)で述べたように、
二重性(duality)を言語の本質と捉えるならば、
言語の最小の分類は音(sound)と文字(letter)である。
意味の無いもの二つが合わさって、意味のある単語(word)となる。
低い地位の要素が合わさってより高い地位の要素に変化することが、
人間言語の特徴であるうならば、
これの考えが、先ほどの問いのヒントになるかもしれない。
safe / seɪf /
save / seɪv /
この二つの語の違いは最後の子音である。
/ v /は声帯の震えを伴う発音であり、有声音(voiced sound)という。
しかし/ f /には声帯の震えはない。これを無声音(unvoiced sound)という。
二つの子音の共通点は、両方とも、歯と下唇の間を空気が通ることによる摩擦音であることだ。
したがって、同じタイプの音声であると分類することが出来る。
この子音は、音声学的(phonetic)な違いだけでなく、
音素(phonemic)の、物理音としての違いもある。
音素の違いは、単語の成立のレベルにおいて機能上重要である。
上の二つの子音は、/ seɪ_ /という同じ環境に現れて、違う意味をあらわす。
同様に、"f"と"v"の文字は、"sa_e"という同じ環境に現れて、違う単語となる。
この二種類の音と文字は、同じ環境において現れるので、
似た子音であり、同じ地位の音、文字の要素と考えられる。
"f"と"v"は、単語の示差性として、同じ機能を果たしている。
ではこの二つはどうだろうか。
pot / pɒt /
spot / spɒt /
この二つの語の/ p /という音は、同じ"p"という文字を使って表記されるので
同一のものだと考えられる。
しかし、音声学的には異なる音である。
/ pɒt /の/ p /は呼気と一緒に発音されるが、/ spɒt /の/ p /には呼気は伴わない。
この違いは、この二つの語に独特なものではなく、
英語の一般的な音声パターンの特徴である。
頭文字にくると、呼気と一緒に発音し、"s"の後だとない。
この違いは先の/ f /と/ v /の違いと、同じではない。
同じ環境において現れる違いではないからだ。
呼気を伴うか、伴わないかは、音声学的な違いではあるが、
英語では、音素としての示差性は無い。
だが、もちろん異なった音声システムをもつ、異なった言語では、
異なった音声学的特徴を採用している。
これが、私たちが新たな言語とであったときの混乱を生じさせている。
私たちの音声区別の感覚は、慣れ親しんだ言語の音素の区別と一致する傾向がある。
例えば、日本語では/ l /と/ r /の音の意味的区別をしないので、
/ ra'it /と/ la'it /の意味の違いが分からないだろう。
言語音は、
より地位の高い、語の構成要素としての、他者との融合に関する二重性においての機能を考慮し、分類することが出来るが、
この規則は、音と単語の二重性においてのみに限定されるものではない。
言語の描写のすべてのレベルにおいて適用できる。
昨日述べたように、
音の分類は同じ構造環境において現れることが出来るか、に基づいて行われる。
このことは二つの関係性を考えればよい。
同じ環境において現れるという類似性と、
それによって明らかになる相違性である。
今日は以下の例を見てみよう。
/ pɪt / / pQt / / bQ /
これらの単語でペアを作るならば、二通りが考えられる。
ひとつは/ pɪt /と/ pQt / 。母音/ ɪ /と/ ǽ /が、/ p_t /の子音に挟まれた同じ環境において現れている。
もうひとつは、/ pQt /と/ bQt /。子音/ p /と/ b /が同じ/ _Qt /という環境で現れている。
構成要素が、同等な特徴と結合するとき、それを、統合関係(syntagmatic relation)という。
つまり、音という同じ地位の要素/ p /、/ Q /、/ t /が、結合して/ pǽt /という語になる時、
この三つの要素は統合関係にある。
同じような環境において現れることが出来る構成要素が複数あるとき、
それを、連合関係(paradigmatic ralation)と言う。
つまり、/ p_t /という環境に、/ ɪ /、/ Q /、/ ɒ /、/ e /があわられることが出来るので、
この四つの要素は、連合関係にある。
このような分類の規則は、他の地位の描写にも適応できる。
語の単位としての"pat"と"pet"が句(phrase)となるとき、同じ環境において現れる。
the pat/pet the friendly pat/pet that pat/pet that strred up all the trouble
このように、同じ環境において結合することが出来る。
対象となる語は、"pat"と"pet"のように音や文字が似ている必要は無い。
"man" "embaress" "platitude" "face" "match" "approach"...何でも良い。
"the __"、"a __"、"that __"のような環境に現れる語を名詞(noun)と言う。
もちろんこれは一般的な分類であり、結合の可能性の調査によって、いろんな分類がである。
すべての名詞は、冠詞(article)の後に現れることが出来る。
"pat"や"pet"は普通、そのような環境において出現し、
"paternity"や"petulance"のような語は、冠詞がない環境にも出現出来る。
その点において、"pat"や"pet"は可算名詞(count noun)であり、
"paternity"や"petulance"は、不可算名詞(non-count noun)である。
以上のような結合の可能性の分類は文(sentence)になる、区の結合にも適応できる。
The pat was offensive.
の下線部には、限りない数の句と入れ替え可能である。
"The fliendly pat " "The pat on the back" "The pitter patter of tiny feet" .....
これらは"___ was offensive."と結合できるので、統合関係にあると言える。
句内部の構造は異なっているのに、
文構造の構成要素としてはみな同等の機能を果たしている。
言語には二つの軸がある。
音と音、または文字と文字が語になり、語と語が句になり、句と句が文になる、
統合関係(syntagmatic relation)の軸。
とある水準の構造において、異なるものが同等の出現の可能性を持ち、
同等の機能を果たすときの、連合関係(paradigmatic relation)の軸。
この二つの軸が、人間言語の創造性と柔軟性、
有限の手法で、無限の表現を生み出す源となっている。
先日の引用を以下のように書き換えることが出来るだろう。
Everything is paradigmatically associated with something when it fits into the same syntagmatic slot: what is ths associated with?
この問いは、言語の欠片がどのように結びつき、
私たちは、どのようにしたら、異なる欠片を同じ分類の機能として結びつけることが出来るか、ということである。
言葉のひと欠片があれば、様々な方法で描写することが出来るが、
分析するべきデータとして、言語を扱うために、
ある程度言葉との距離を置くことは、簡単ではない。
WHERE TIME STAND STILL
The history of Oxford is not a thing of past. Here, time seems to hang as if judged guilty.In Oxford,
people still ride bikes, wear gowns, have servants and live in gothinc buildings.
Walking through the city, passing the crumbling walls of the colleges, it is easy to forget that it is the twentieth century... only the scaffolding gives it away. Apart from this intrusion, Oxford's air of the past remains undistrubed. This should not be altogether surprising since most of the colleges were founded well before the eighteenth century.
(Oxford Handbook 1980-81)
上の文章は、感傷的で歪められた文章であるが、十分に言語データとなり得る。
読解と、分析は違うのである。
まず、英語の音と綴りの一致について述べることが出来る。
ここでは、音韻論(phonology)と書記素論(graphology)システムの調和の欠落である。
書記素論の要素である、"i"には、二つの音韻論の音と対応している。
"time"の/ aɪ/と、"if"の/ɪ/である。
逆に、"i"と"ui"と"y"の三つの書記素論の要素は、同じ音と対応している。
"if guilty"は/ ɪf gɪltɪ/と発音する。
また、語に注目すると、語の内部構造について気づく点があるだろう。
例えば、"-ing"である。
thing building walking passing crumbling scaffolding
"-ing"と、対応する音/ -IN /は明らかに意味の単位である。
しかし、これだけで出現することは無く、必ず他の語などについている。
"build"という動詞につき、"building"という名詞になる。
"walk"という動詞につき、"walking"という現在分詞(present participle)になる。
しかし、"thing"に関しては、"th"という単語が英語には存在しないので、
上記の二つと同じ種類の"-ing"と分類することは出来ない。
これは形態論(morphology)の簡単な考察である。
形態論的な構造だけでなく、語彙の要素として考察することも出来る。
つまり、語彙目録(lexical item)、語彙素(lexemes)としての単語である。
このオックスフォードに関する文章で使われることによって、"gown"という単語は、
辞書のひとつの項目である、「外套」の意味を表し、
可能性の一つであった、「女性用ドレス」という意味を排除している。
そしてこの文章で使われるからこそ、"bike"は"bicycle"の砕けた表現である。
また、ありふれた連語である"time stands still"のようなものと、
一種の言葉遊びである、"time seems to hang as if judged guilty"とを対比させることが出来る。
これは、"hang"、"judge"、"guilty"という裁判に関連付けた駄洒落であって、
"time seems to hang..."の一連から予想されるもの、
例えば、"time seems to hang hevealy on their hands"が続くのだろう、という期待を裏切っている。
語の連続や共依存に関する考察は、
どうやって語が、句や文の構成要素として、統合関係を築くか、という分析に繋がる。
英語統語論(syntax)の例として分析してみる。
In Oxford, people still ride bike.
[ In Oxford, people still ] wear gowns.
[ In Oxford, people still ] have servants.
この文章には目に見える語の連続と、括弧に括られた、隠された構造との違いがある。
また、同じ構造で、異なった語順にすることも出来る。
In Oxford, people ride bikes.
People ride bike in Oxford.
この二つの文章での主語(Subject)は"people"であり、
"bike"が目的語(Object)で、"ride"が述語(Verb)、"in Oxford"が修飾句(Adjunct)である。
上の文はASVO型であり、二番目の文はSVOAである。
SAVO型も考えられるが、これは二つ在り得るだろう。
People, in Oxford, ride bike.
People in Oxford ride bike.
下の文には修飾句の前後にカンマが無いが、
これでは"in Oxford"が"people in oxford"という名詞句として機能するため、
文構造としては、SVO型の文である。
なぜ統語論が、交換可能な句を許容するのか、である。
これは更に他の分析レベルへとつながる。
入れ替えが可能であるということは、その違いに意味が無いということだ。
先日の、例として分析した文の表現は、テクスト(text)と繋がっている。
テクストの一部としての機能は、効率的と思われる方法で情報を組織することである。
Here, time seems to hang as if judged guilty.
"Here"のような繰り返しは、テクストに質感を加え、文と文の結束関係(cohension)を作る。
この表現は、回想である。
私たちは、この文章の前に"Oxford"という表現があり、
この文章との関係性を見出すことで初めて、意味を理解することができる。
テクストとしてのデータ分析をはじめると、様々な点に留意しなければならない。
このテクストはどんな種類のものなのか。ジャンルは何か。
誰が誰に対して書いたのか。
これを書くことの目的は何なのか。
誰の現実について書いてあり、どんな社会的地位、宗教、価値観が反映されているのか。
このような疑問は言語学の域を越え、
社会的背景(context)にまで及び、推測をし始める。
このような分析は、このテクストが何を意味しているかではなく、
筆者がこのテクストで何を意味したかったのか、
読者に対して、どんな意味を持つのかという解釈になる。
これは語用論(pragmatics)の領域である。
異なった領域では異なった言語の特徴に注目する。
同じデータを違うものの証拠として使う。
一般的に行って、扱う単位が大きくなるほど、
テータの抽象化が少なくなり、人々の実際の言語体験と近づいてゆく。
妥当な結果には、それだけ信頼性は減ってゆく。
結局のところ、言語の形を扱う形態論(morphology)は比較的安全だが、
意味を扱う語用論(pragmatics)は、比較的リスクが大きい。
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |