第5章、言語における絶対的な恣意性と相対的な恣意性
どのような言語の恣意性にもレベルがある。
完全に恣意的な記号は限られた一部で、その他には名付けと言う現象が介在し、やや恣意性が劣る。
恣意性は、無根拠性(仏 immotivé)ということもできる。
記号と音の関係に、相対的な恣意性が生じる事がある。
vingt(20)は完全に無根拠であるが、dex-neuf(19)は、意味を喚起する言葉、dix(10)とneuf(9)、を含んでいる。
dixとneufは、それぞれは完全に恣意的である。しかしそれらが合わさることによって、相対的に根拠づけられる。
ormeau(樫)、chêne(こなら)に対するpoirier(梨の木)←poire(梨)も同様である。
このような例は様々に存在する。
そして、ships(船)は、船と、複数の概念を含んでいる。
この語に含まれる複数の概念は、birds(鳥)、flags(旗)、books(本)と共通する概念である。
men(男たち)は複数の概念を含むが、そのほかの語を喚起することはない。そして、sheep(羊)は何も喚起しない。
このような対照的な例を通して、絶対的な恣意性と相対的な恣意性を区別する事が出来る。
言語記号を語る際は、基盤となる恣意性に基づいて、進める事になる。
言語をシステム、つまり有機的組織になさしめているものは、このような基盤からの観点が必要である。そのほかの言語に関するすべては、この基盤の上に在る。
絶対的に恣意的な語彙と、相対的に恣意的な語彙がどれほどの割合で、ひとつの言語の中に含まれているかを、言語ごとに比べる事が出来る。
ある言語には無根拠な語彙が多く、ある言語には少ない、という差が存在する。
これは言語の進化に言える。言語が進化する過程は、この割合の変動である。
ラテン語からフランス語へと進化する際に、多くの恣意性の低い語彙が、無根拠な語彙に入れ替わった。
ラテン語in(否定)+amicus(親切な)=inimicus(敵対)から、フランス語ennemi(敵)へ。
このような関係は何百もの例が認められ、フランス語の性格に大きな影響を与えている。
英語も、ドイツ語よりも多くの無根拠な語彙を含んでいる。
どんな言語も、無根拠な要素の割合がゼロになる事は無いし、ある下限を越えることもない。
無根拠なものが最大になった言語は、ある意味で、語彙的であると言える。中国語などは独立した区切りの列である。
無根拠なものが最小になった言語は、ある意味で、文法的であると言える。印欧祖語やギリシャ語などは、鎖のような輪のつながりがあり、1つの輪は別の輪を喚起する。
両者の関係は、直接の関係ではないし、同義でもない。恣意性を考慮しなくても、諸言語は語彙的と文法的に傾向が分かれる。
重要なのは、2種類の恣意性の区別が、その他の関係を明らかにすると言う事である。
相対的恣意性には、相対的という意味を考える上で、重要な2つの関係性がある。
1つは項(仏 terme)と項の関係である。
相対とは、必ず、対比される他の項が存在する。次にあげる関係に比べれば外的な関係である。
例えば、poirier(梨の木)とpoire(梨)。
もう1つは、項の中に含まれる、量あるいは価値(仏 valeur)の関係である。つまり、概念と聴覚イメージ。
この内的な関係は、もちろん、外的な関係を持たなくても存在している。
しかし、この内的な関係がなければ、2つの項の外的な関係は築かれない。
désireux(望むこと)か思い起こされるdésir(望み)は、ただの、聴覚イメージによる結びつきに過ぎない。
この2つの項の関係を築く為には、désireuxとdésirの聴覚イメージ、désireuxとdésirの概念の関係が成り立たなければならない。
内的な関係を知らずに、外的な関係だけを知る事は出来ない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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大学で4年間語学を勉強したのに、まったく話せるようにならなかったというのは、大人の語学クラスで良くある事である。
なぜ、みんなそうなのだろうか。
私たちの頭が悪いのか、語学に向いていないのか、それとも先生が悪いのか。
まず、会話について述べよう。
外国語で、ネイティブスピーカーと一緒に会話をする事は、実際世界的な問題となっている。
それは、彼らが話している事の文化的文脈が理解出来ると言う確信と、彼らが自分を理解する為に、自分の考えや感情を伝える事が出来るという確信が必要である。
会話は、ネイティブスピーカーと会う事が無くても上達するような、読解の知識や聞き取り能力とは、全く異なる問題である。
外国語を流暢に話す事は、IQや学力の問題ではない。ちゃんとした教育を受けずに、いくつもの言語を話せる人はたくさん居る。
年齢の問題でもない。子供たちだけが言語を習得出来るという考えは、あまりにも悲観的である。
現代語文学学会は、「早すぎる事は無い、遅すぎる事も無い」と主張している。
確かに子供達は、新しい言語の中にいる時は、かなり早く言語を習得するが、それが、大人の学習に勝るとは言えない。大人は、認識の面で優位に立っており、学校での教育を受けているのだ。
ひどいフランス語なまりの英語を話す『ピンクパンサー』のクルーゾー警部のような話者にはなりたくないだろう。
言語は単純な、単語や句の組み合わせではない。情報伝達には複雑なシステムが存在する。
数週間で語学をマスター出来るなどと言う広告に惑わされてはいけない。
言語を修得するのにはとても時間がかかるし、母語に似ていない言語ならばもっと時間がかかる。
通常の、大学における四年間の語学学習では、200時間かそれ以下の学習時間が設定されている。
しかし、アメリカ政府の実力志向の語学学校では、すべての授業の最低600時間は、その言語に接している。そして、英語とは少し離れた言語、中国語や韓国語や日本語やアラビア語を修得する為には、フランス語やスペイン語の倍以上の時間がかかる。
以上のような時間的な問題に加えて、さらに2つの事柄が必要である。
その言語を話す人々との長い共同作業と、何が話されているかを理解する為の言語学的な手がかりである。
語学学習の為に外国に行っても、一ヶ月や一年では十分ではない。
突然アメリカに来て英語を学ぼうとする人は、"Wutchagonnado?"と言われて困惑するだろうが、いつか、それが"What are you going to do?"である事を理解する。
これは、聞き慣れていない言語を聞いた時、全ての人が体験することであろう。このような一連の音声を分かるようになるには、どうすればよいのか。
「全身浸礼」以外では、自分の国に居る、目標言語のネイティブスピーカーの会話を盗み聞きすると良いだろう。
彼らは、私たちに文法や、なぜそんな言い方をするのかを教えてくれないし、もっとも、知らないだろう。説明が無いと、学習は無秩序で非効率的になる。
思春期を過ぎると、ほとんどの人達が、音声の聞き取りや文構造の理解、文化的文脈の理解の為の枠組みを知る為に、教室での享受を必要とする。
認識の枠組みを勉強しない大人は、しばしば、不快な流暢さが残ってしまう。単語やスピードに問題が無く、正しい発音をしていても、文法がしばしば不適切で、そして単語の使い方に対して文化的な感性がない。
かれらはクルーゾー警部のような高原状態(プラトー)に陥り、上達も低下もしない状態で止まってしまうのである。
大人の語学学習には、留学に行く前に、学術的な確立された知識を得た方がよいが、教室で学ぶだけでは不十分である。
もし語学の授業を受けて、数年後に、何を学んだかまったく覚えていなかったら、それは、第2ステップを省いたからである。それは、その言語で話をする事である。
自分の国でも出来るし、夏休みの研修や、キャンプや、身近なネイティブスピーカーと話す事も出来ただろう。インターネットで海外のニュースを読んだり、聞いたりも出来る。読書も、ラジオも、映画でも、音楽を何回も聞く事も良い。
新しい技術のおかげでネイティブスピーカーと関わる事も出来る。これらはとても強い動機付けになるだろう。
外国語の一定の能力が身に付けば、その能力が、言語の流暢さを保つには十分の、動機を与えてくれるだろう。
Nina Garret, "30 What does it take to learn a language well?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)
以前述べた第1章への追加をする。第1章と第2章のあいだに入るべき考察である。
言語は全て、個人的な発話の集合から得られる産物である。
しかし、発話は言語から作り出されたもので、言語の無い発話は存在しない。
言語の社会的な認可によって決まる、集団的なものである。
言語は集団に居る個人の一人一人の頭の中に貯蔵されているが、同時に、集団的である。
1+1+1+...+1+1=1
発話は個人のものであり、その場限りのものである。
発話の総体は2つに分かれる。個人が作り出したもの、あるいは文、そして、作り出したものを用いた発話行為。
集団的な発話は存在しない。1+1+1=1+1+1
言語と発話は、区別しなければならない。
言語は社会的な習慣であり、個人を無視した、心理学の領域である。
発話、そして同類に分類すべき発声を含めて、それらは心理物理学の領域である。
2つは異なる領域なので同時にたどる事は出来ない。
隣り合う学問としてかいま見る事は役に立つであろうが、しかし、それ以上の事はしてはいけない。
第2章、記号システムとしての言語(この表題でも良かった)
第2章で指摘したのは以下の2つである。
1、言語記号は恣意的である。
2、言語記号は広がりを持ち、それは一次元の方向に限定される。
シニフィアン(仏 signifiant)とシニフィエ(仏 signifié)の用語があると良いだろう。
記号を構成する要素が、聴覚イメージとしてのシニフィアンと、概念としてのシニフィエである。
上の考察は以下のように書き換える事が出来る。
1、言語においてシニフィアンとシニフィエの結合は完全に恣意的である。
2、言語において、聴覚的な本質により、シニフィアンは時間の中で展開され、時間と同じ特徴をもつ。
a)広がる特徴
b)ただ一次元の方向のみに広がる特徴
以前使用した記号(仏 signe)という言葉は曖昧で不明瞭である。
しかし、シニフィアンとシニフィエの結合を、的確にあらわすのは難しく、適した言葉が存在しない。
記号、項、語など、それらはこの結合の一部分しか示さない。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
アメリカで全ての人に教えられた、一番始めの言語は、アルゴンキン語(Algonquian)である。
アメリカに来たイングランド人が、先住民とコミュニケーションを取り、生き残る為に言語を学んだ。
そして直に形式化され、学校が設立されると、ヨーロッパと同じように、ヨーロッパの伝統に則った学校での語学教育が行われることになる。古代ギリシャ語とラテン語である。
1800年代には、近代的な言語がひろまった。
はじめは、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語が設けられ、人々は、古典言語と同じようように、同じ目的で学んでいった。
ヴァージニア大学が創立される前年、1824年に、トーマス・ジェファーソンは以下のように述べている。
「ラテン語とギリシャ語は、よい教育の基礎を成しており、良く教育された人の人格を形成する上で必要不可欠である。」
そして翌年にはこう書いている。
「我々は一般的に、外国語で書かれた本を読む為に、その言語を学ぶ。」
人間によるコミュニケーションについての話は無い。
次の数世紀まで、アメリカ人は話す為ではなく、読む為に言語を学習していた。
語学の教室では、読解、翻訳、文法解説が行われ、話す能力は求められなかった。
第二次世界大戦により、アメリカは緊急に、大量に外国語話者を作り出す必要にかられた。
兵士でも一般人でも、文法や文学作品に精通していなくても、実際に、外国語話者と話せる人が必要であった。
そして必要な言語は、ドイツ語からビルマ語まで様々種類があった。
言語学専門家は、戦争のための言語教育にかり出され、そこで言語教育が激変する。
当時は学習に関する行動主義の最盛期であり、教師は、生徒達の頭に言語の型を押し込める為に刺激と応答による教育が行われた。
生徒は、会話を暗記し、口頭による問題の素早い回答により学習し、自らが文章を作り出すということはほとんどなかった。
かなりの程度までそれは有効だった。
以前の、書き言葉中心の文法と翻訳の学習に比べて、このオーディオリンガル(Audiolngual)学習によって人々はより流暢に、より短期間で、多くの言語を学んだ。
第二次世界大戦から冷戦へと受け継がれ、言語学習の需要は、特にロシア語が、高かった。
古代ギリシャ語は人気が下がり、ラテン語は上がったり下がったりしたが、語源として英語に多く含まれているために広く教えられていた。
1960年代初頭、アメリカ中でオーディオリンガル教授法が普及した。しかし、その欠点も明らかになってきた。
言語のように複雑なものを学ぶ時、刺激応答の学習モデルでは限界があった。
研究者はもっと細かく、言語修得の方法を研究し、より進化した獲得方法を明らかにした。
このような観点から語学教授法は再び変わった。
近年では、コミュニケーションを目的とした言語学習が詳細に明らかになってきたで、もっと進展した教授法が行われている。
年齢や、文脈(教室や全身洗礼や、海外留学)、スタイルの作用のようなものよりも、もっと多くが明らかになっている。
インターネットでの国境を越えたやり取りをし、外国のニュースのウェブサイトを読み、生徒達は限界に挑んでいる。
彼らは言語よりも文化に興味を持っているので、教室では現実的な課題に取り組んでいる。
もし、トーマス・ジェファーソンが現在の学校を見たら、ギリシャ語とラテン語の減衰を嘆くだろう。
しかし、様々な言語を学び、かなり高い言語能力を持った生徒達に感動するだろう。
教室中を歩き回り、不完全なしかし理解出来る文法を用い、短い文章で会話し、ジェスチャーで補完する生徒達が居る。
これはまさに、先祖達がアルゴンキン語を学ぼうとした時と似ているのではないかと思う。
June K. Phillips, "31 How has our thinking about language lerning changed through the year?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)
*第2部、第2章と第3章の間に入れるべきもの。
第3章、記号の不変性(仏 immutabilité)と可変性(仏 mutabilité)
シニフィアンのとシニフィエの関係は恣意的であると述べた。その関係は自由に選択できるし、置き換えも可能である。
しかし、言語を用いる社会では、記号は強要されるものである。個人や共同体が勝手に記号を入れ替えることは出来ない。
自由でありながら選択の余地のないという、矛盾がある。
この原因は何だろうか。
まず、言語に関して、遺産であると言う観点がある。
名付けの、シニフィアンとシニフィエの契約の成立は、純粋に、想像上の行為であるり、現実ではない。
言語はいつの時代でも、その前の時代から、完成したものとして引き継がれた遺産である。
そして言語はいつの時代でも、常に歴史的な起源がある。
なぜ言語が自由ではないかという問題は、社会的要因と歴史的要因のバランスである。言語の疑問は他の社会制度の疑問と重なる。
その他の遺産や社会制度と比べてみることは有効であろう。
例えば、法律。法律は変えてはいけなかったことが無い。
それから他の記号システム。それらはしばしば、全体の突然変化が可能である。
さて、言語の不自由に関する考察をいくつか述べてゆく。
外国語の習得の困難さを思い出せば、変化の難しさもわかる。
言語活動における意識、無意識の判断の難しさも、その不変性を支持している。
言語外の要因としては、
1、言語は毎日、一日中、個人に使用されていること。
これは民法や儀式などと比べて、変化が制限されている理由である。
言語自身に含まれる性質。
2、言語が大量の記号から成っていること。
言語がアルファベットのように、20個やそこらしかなかったら、それを改革するのは容易であると考えられる。
言語程多くの記号を用いたシステムは、まだ見つかっていない。
3、言語の恣意性。
シニフィアンとシニフィエの結合に根拠が無いということは、一度出来上がってしまうと、そのことに関して議論が出来ないということである。
議論の為の、他と比較する尺度が、そこには無いのである。
4、言語が資料体(corpus)、システムであること。
つまり、言語は1つのシニフィアン、1つのシニフィエの結合の集合ではない。
ひとつのユニットが近隣のユニットと相互作用する、複雑な組織である。
言語の劇的な変化は、専門家である文法学者と論理学者の集団以外に、起こすことは出来ない。
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
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