第2部 言語
(なぜか、第1章という区分がない。)
言語(仏 langue)と言語活動(仏 langage)は違う。
言語は言語活動の最も本質的な部分であるが、結局、その一部でしかない。
様々な学問領域にわたる言語活動を無視して、言語だけを語る事は出来ない。けれども言語活動を一括する何かは、まだ分かっていない。
一方で言語は、有機的組織として他から分離できる、有効な単位である。
言語を中心に据え、周辺部として言語活動を整理する事が出来る。
ただしその前に、言語に関しての考察が必要である。
私たちは、生まれつきの言語能力を持っているのか、それとも、慣習的に獲得するのか。
言語は、自然現象や本能とは関係のないものである。
まず、言語に関してどこまでが生まつきであるかと言う問題に、言語学は未だ答えていない。
発声器官は、歩く為の脚のように、人間が分節化された言語を話す為に存在するかと言う議論は多くあった。ホイットニーはそれを否定している。
分節化された言語(仏 langue articluée)という考えは重要である。一続きの連続するものを、意味単位へと分割する。
それは、人間が、話すための道具として発声器官を選んだからである。
脳の中では、言語能力は、ただの記号でしかないことを、ブローカが発見した。言語能力と作文能力は、脳の同じ部分で処理されている。
ただし、例え言語能力が生まれつきであっても、社会的総体としての言語が不可欠である。
言語活動は必ず個人の中に見られるが、個人は必ず2人居なければ、個人は言語能力を発揮できない。
この2人の個人による発話回路を観察する。
1、まずは内部と外部。内部は発声・聴覚器官を含む個人のテリトリーで、外部は、空気の振動の波としての音である。
2、内部は心理部と身体部に分かれる。発声・調音器官の振動や筋肉の動きなど生理的なものが身体部で、残りは全部心理部である。
3、身体部は受動部と能動部に分かれる。聴覚器官から心理部へ向かう(聴覚イメージを生じる)受動部と、心理部から発声器官へ向かう能動部。
4、心理部は受容部と実践部に分かれる。心理部は重要な、回路の中心であり、言語のイメージ(記号)と言語の概念(意味)が結びつく。
連続する発話では、この回路を繰り返し言語が回り続ける。受け取った聴覚イメージを整理し秩序立てるのが主体(仏 sujet)である。
社会的な行為とは、個人の行為の集合であるが、社会のなかの個人は必ず他の個人と連携している。
個人に、社会は成立しない。
個人と個人の間に社会的言語があるのか。個人の外部には、空気の振動しか存在しない。
心理部を統率するのは個人である。言語の使用はあくまで個人の行為である。
一方、個人の言語を受容する部分は、社会の個人にほとんど共通するものが形成されている。社会的な言語は、ここに存在する。
一人の個人に中に、社会的総体としての言語が、貯蔵されているのである。それは純粋に心理的で、心の中のものである。
言語は脳の中だけにある。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
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言語を愛する人々にとって、急速に言語が死んでゆくのはとてもつらい。
世界の言語の約半分の、話者数が1万人をきっており、21世紀の終わりには、現在ある90%の言語が死滅するだろうと言われている。
もう10人にも満たない、1人や2人しか話す事が出来ない言語もある。その話者が死ねば、言語も死ぬ。
なぜ言語が死ぬのか。
簡単な答えは、言語が次世代に伝わらないまま、年老いた話者が死ぬからである。
なぜ、自分たちの伝統と言語を次世代に伝えようとしないのだろうか。理由は、場所によって様々である。
インドのシュラング(Sulung)の人々は、もう1000人以下に減ってしまったが、隣の部族の侵攻によって移住を余儀なくされている。
もしも、彼らが全滅させられてしまったら、彼らの言語も無くなってしまう。
驚くべき事に、新しい言語もまだ、見つかっている。
1991年、ヒマラヤで、古語として知られるGongduk語が発見された。これは、言語学者にとっては伝説の楽園の発見のようであった。
加えてブラジルの奥地では、既知の言語とは似ても似つかない複数の言語が発見されている。
しかし言語の発見は稀なことであり、言語の減少が圧倒的である。
地の果てでなくても、高い山や急な谷底、道路のない場所など、地理的な障壁が言語をまもる事がある。
イースター島のラパヌイ語(Rapanui)話者の例である。
約1500年程孤立しており、19世紀にはスペインによって、奴隷としてアフリカに出荷された。
島に戻ってきたのは少数で、現在は1000人程の人が、スペイン語と対面しながらもラパイヌ語を話し続けている。
30年前、ブラジルで、牧場主と違法の木材伐採者によって、Jiahui族の人々が敵対する部族の土地へと追い立てられた。
残った少数のJiahui族の人々は、友好関係のある部族の中や、都市へと逃げた。
現在、Jiahui族の人々が自分たちの土地の返還を求めているが、もう50人しか残っていないのである。
ブラジルのマト・グロッソ州のRikbatsá族の人々の例はどうだろうか。
彼らは宣教師に歯向かう優秀な戦士であったが、彼らが欧州から持ち込んだ、インフルエンザと天然痘への免疫が無かった。
こられの病気はRikbatsá族と他の先住民の多くを、彼らの言語と一緒に死なせたのであった。
もしくは、殺し屋言語(killer language)と呼ばれる英語やスペイン語の勢力によって、人々が、便宜上、実利上の理由により、自ら望んで母語を放棄する事がある。
土着の人々はしばしば、差別にを乗り越え、多数派の文化に同化する為に、自分たち言語を捨てる。
子供たちが少数派の言語を学ばなくなれば、言語はゆっくりと消えてゆくのである。
なぜ私たちは言語の減少を気に病むのか。
それは、言語と一緒に受け継がれた知識、思考の世界が丸ごと無くなるからである。しばしばそれは、自然や動物の絶滅と比較される。
確かに、消えた言語は残された断片の研究により再構築が可能であるし、いくつかの言語は再構築なされている。
しかし結局それは紙の上でことであり、その言語を話していた社会、文化や伝承を知る事は出来ないのである。言語が一度消えてしまったら、もう、永遠に元通りにはできない。
世界的な言語の減少についての議題が急浮上したのは、わずか20年前である。
さまざまな機関が、言語の多様性を守る為に設立された。アメリカとイギリスは、減少中の言語の調査と維持のサポートに献身的であった。
現在はユネスコの危機言語プロジェクトがあり、またロンドン大学には危機言語科が設置された。
Christoer Moseley, "24 Why do language die?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)
言語活動は、2つにわかれる。発話と、言語である。
さらに、以下の2つの区別も必要である。
言語能力を行使する事。この時の道具は言語である。
そして、その道具としての言語の記号システムを、個人が使用する事。
重要なのは以下の言語の性質である。
1、言語は、対象として言語活動から分離出来る。
言語のイメージと言語の概念が結びつく、心理部の中に存在する言語は、言語能力、発声器官、話者と分離した存在である。
言語能力があっても、言語を学習しなければいけないし、発声器官を痛めても頭の中に言語は存在する。話者が居なくなっても、紙の上には言語の機構が残っている。
2、言語はそれだけで研究対象となる。
3、言語は限りなく心理的なものであるから、均質である。
4、言語は、実在として存在て居る。
筋肉の動きや空気の振動等、様々な要因による発話と違い、言語は、聴覚イメージだけに変換される。
様々な心理的な現象のように、頭の中に確かな現実として存在する。
言語は、頭の中に貯蔵されているので、それだけを取り出して研究する事が可能である。
辞書や文法は、それらを取り出した形として適切である。
言語から、不要なものをそぎ落としてゆけば、記号と概念の結びつきに帰着する。
心理学の一分野得ある記号学(仏 sémiologie)の重要な言語現象は、音声言語をはじめ、文字表記、海上記号(モールス信号)、聾唖者の言語(手話)が含まれる。
人間社会のひとつの記号的事象として、研究される。
言語の研究は常に個人の発話から出発する。
無限の個人の発話から合意を導きだし、それが言語となる。言語は、個人の発話の後である。
言語は、発話機能から生み出されるものなので、それからは分離して語られる。
言語を、言語活動にとって本質的で本源的と捉える事は、その他を、下部として見る事である。
海上記号に対する発信器、曲に対する演奏者、言語に対する音韻論(仏 phonologie)の対象は、副次的なものである。実践は、本質ではない。
音声学(仏 phonologie)は生理学であり、言語学ではない。
では音声学(仏 phonétique)はどうか。時間による語形の変化は、本質から切り離してよいのか。
実際には、音声学上の変化なぞ、存在し無いのである。音の置き換えであって、言語システムの変化ではない。
従って、言語は音声とは分離したところで語られる。
言語活動の出発点は言語である。
保留点。
発話と言語を簡単に分離する事は出来ない。
文法的な語形の変化は言語であるし、個人的な語順の選択は発話に属する。
無限の個人から抜き出した、社会的言語を、また、個人が使用する事に関して問題が生じる。
社会的決まり事と、個人にゆだねられる部分の境界は曖昧で、それは、社会と個人、実践と知識が混ざり合う構文(仏 syntaxe)の中にある。
このように、無数の個人的発話無しに言語は生じない。与えられた言語を通してでしか、言語を捉える事は出来ない。
これから、その言語を、与えられた全ての言語に当てはまるように、出来るだけ一般化するのである。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
第2章 言語記号の本質
言語記号(仏 signe linguistique)は、主体の中の心的な部分での、概念とイメージの結びつきである。
より心的な概念と、感覚的なモノとしての聴覚イメージ。
言語には名称のリストしかない、という考え方は間違っているが、言語を捉える出発点としては正しい。
名称 arbos(ラテン語)
対象は、主体と名前の外にある。
名前は、発声によるものとも、頭の中の聴覚イメージとも捉える事が出来る。
一方で、主体の中には、概念としての木と、聴覚イメージとしての"arbos"が存在する。
聴覚イメージは、概念とは異なり、頭の中で発声せずに再生する事が出来る。映像と同じモノ、イメージとして存在しているのである。
注意すべき用語をあげておく。
音素(仏 phonème)は、発声行為を意味する用語であるので、言語の説明にこれを用い居るべきではない。
また、音声イメージと聴覚イメージの違いも気をつけなければならない。
記号というものが、聴覚イメージを指すのか、聴覚イメージと概念の結合を指すのか明確には答えられないが、この概念とイメージを区別する事は重要である。
重要な原理1。言語記号は恣意的(仏 arbitraire)である。
恣意的とは、個人の自由を意味しているのではなく、記号と概念の結びつきの、根拠の無さを指す。
「しまい」は「姉妹」の概念と関係がない。「うし」は「牛」の概念と関係がない。
同様に、siという音と、「し」という文字表記が結びつく根拠は無い。
記号論にとってこの私意性は重要な前提であり、記号とシンボルを区別する。記号論の対象は、恣意的な記号である。
弁護士徽章のシンボル「天秤」は概念「公正」と深い結びつきがある。
言語は、その概念と聴覚イメージの結びつきが恣意的であるからこそ、継承のみに根拠があり、力によって意図的に変更する事が難しいのである。
ここで、「イメージ」と言う表現の考察が必要である。「イメージ」は、常にそれが表現するものと結びついている。
ここではこの言葉を、想像力に働きかけて、何かを呼び起こすものとして考える。
恣意性に関して擬音語(仏 onomatopées)の問題がある。
擬音語の内的な結びつきをどう扱えば良いのか。
人々が擬音語を語るとき、かなりの数量の誇張が入る。普通の語と同じように振る舞う、それらの語を、特別に語る事がある。
感嘆詞に関しても、恣意的な結びつきがあるように見えるが、多くのものは、意味をもつ単語が変化したものである。
擬音語と感嘆詞に関しては、付随的と考え、別の場で議論する必要がある。
重要な原理2。言語記号は一次元的な広がりをもつ。
鎖のように、口から時間的線状性を保って現れる言語は、それ故に分節を設定する事が出来る。言語に層は無い。
例えば、強勢アクセントは、言語の上に付加されるもの様に考えられるが、実際は、並列する他の要素との関係で成り立つ、同次元の現象である。
聴覚的線状性故に、言語を空間的なかたちとして再現出来るのである。文字は一本の線である。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007
1977年に宇宙へ送り出されたボイジャー宇宙探査機には、宇宙人が人間の言語のサンプルとして聴けるように、55言語の短い挨拶が録音されている。
それには英語も含まれているが、それは、どんな種類の英語だろうか。
私たちみんなが文章を理解する事ができ、母国語の他に、まぁ適度に話す言葉が出来るような言語として、英語を捉えているだろうか。
英語は簡単なアルファベットで表記するし、主要な文法や語彙は広く知られている。
しかし様々な言語と同様に、英語には土地柄があり、イギリス式とアメリカ式の2つの種類が統治している。好敵手であるこの2つの英語は、世界統治の為に、磨きをかけられ洗練されてきた。
ある文脈では、アメリカ英語がトップである。
イギリス英語から派生した多くの方言の一つが、母体であるイギリス英語と、圧倒しないまでも、競争するまでになった。
アメリカ英語はどのようにしてその地位まで登り詰めたのか。アメリカ英語は、正当性では無く、権力によって優位を手に入れたのである。
英国は帝政時代に、世界に英語が広がる程の信頼を得た。しかし、文化と経済の皇帝であるアメリカは、自身の方言を最前部まで押し上げてきた。
19世紀のニューヨークでは、波止場に並ぶ人たちが、みんな英国の小説家であるディケンズの連載を読んでいるのがわかる。
現在は、ロンドンのレスター・スクウェアでハリウッドの第ヒット作の初日公開を待っている人たちの列を見る事が出来る。
アメリカ英語は数の勝負では勝ったが、イギリス英語は、血統として純粋な言語であると考えられる傾向がある。イギリスの英語は最高の品質を保持していると。
イギリス人は、アメリカ独立宣言の署名のインクが乾く前から、自分たちの言語の、その他の方言に対する優位性を主張してきた。
一方アメリカ人は、世界の英語の標準を伝えるものとして、アメリカ英語はどの方言にも劣らず価値があると、熱烈に主張している。
正典に関しては、イギリス英語は、アメリカ英語が決して手にする事が出来ないものを持っている。
ジェイムズ王欽定訳聖書と、シェイクスピアのロマンティックで高度に抽象的な詩、それから19世紀の作家たちのすばらしい伝統作品である。
イギリス英語のすばらしい実績にも関わらず、アメリカ人は、英語に貢献する素振りも見せない。アメリカ英語は最初から我が道を行っているのである。
20世紀のアメリカ人作家がこのように述べている。
「なぜ、私たちの言葉はイギリスからの借り物にすぎないなんかという、妙な意識がまだ残っているのだろうか。まるで、傷一つなく返さなければならない銅のヤカンのように。」
もちろんイギリス人はアメリカ英語の独立と刷新に関して異なる見解を持っている。
「アメリカ人は、昔の人々が、道しるべにも成り得る価値ある植物を考慮せず、森を切り開いて進んだように、言語を切り倒しながら進む事を決めたのだ。」
質と量の問題はさておき、この2つの方言の未来はどうなっているのだろうか。
しかし、英語の未来を決める切り札を持っているのは、イギリス人でもアメリカ人でもなく、英語を第二言語または外国語として学ぶ人々なのである。
この第三のグループは直ぐに、英語のネイティブスピーカーの数を凌ぐだろう。
そしてこれらの人々は、英語に対して、ブランドを求めていない。使える英語を求めているのである。
2000年に、中国での鉄工技術者達の英語指導者として、イギリス人でもアメリカ人でもない、ベルギー人が採用された。
これは、ネイティブではないベルギー人は、英語を学ぶ苦労を知っていると考えたからである。
英語の2大ブランドの最盛期は終わったのだ。
21世紀に英語に求められるものは、第二言語として英語を話す数100万の人々のニーズに応えられる能力である。
さて、宇宙に放たれたレコードをひろった宇宙人は、ロンドンよりかは、フロリダ州のケープ・カナベラル(ケネディー宇宙センター所在)に住むと思われる、女子学生の声を聞くだろう。
"Greetngs from the children of Earth."と。
"Greetngs from the children of Earth."と。
Orin Hargraes, "18 Is British English the best English?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)
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