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地理的に連続した中での進化。
まず、言語的な地理モデルについて考える。
ある時代に、ある陸続きの地域である固有言語が話されている。
例えば、紀元250年頃のガリアでは、ラテン語に占められていた。

確実な事実のひとつ。ある時間が経てば、言語は必ず変容する
これは、絶対的で不可避な原理である。
戦争やさまざまな民族の危機は、その推移を早める事は出来ても、止める事は出来ない。
文語だけを観察している限り、この連続した推移を捉える事は難しい。
文語(表記体系)は一度確立されると維持され、文語は決して、口語を表さない。
今は、この生きた言語に関して述べる。

ふたつめの確実な事実。言語のかたちが領域内で同じように変わるわけではない
つまり、時間によって、地方ごとに変化する。
文語はその上に、まんべんなく重ねられる産物である。

無数の方言を生む原因は何なのか。
ひとつが、繰り返される刷新(innovation)の連続である。
形態(活用)や発音、など、大小さまざまな要素の刷新がある。
もうひとつが、刷新一つずつに、範囲が存在すること。
刷新が領域全体に起こる事は稀で、これは方言を生む原因にはならない。
刷新の範囲が限られ、その範囲が一つずつ異なるという場合が、ほとんどである。これが方言の違いに関する核心であると言える。
この刷新の範囲を前もって決める事は出来ず、ただ、起こった後に確認する事しか出来ない。
地図上には複雑に重なり合った刷新の層が出来る。

フランスの文献学者ポール・メイエ(Marie-Paul-Hyacinthe Meyer)が、「方言の諸特徴は存在するが、方言は存在しない」と言っている。
諸要素の刷新には範囲が存在するが、方言には存在しない。
方言が、明確な境界によって線引きさる事はない。
ある地点で言語を習得した人が、領域の端から、他方の端へと移動してゆくときに、途中ではわずかな要素の違いに気づくだけだろう。
しかし、いつの間にか、理解できない言語の地域に入ってしまっているのだ。

多くの場合、領域の両端は、決して分かりあえない言語であっても、
任意の地点では、その周辺の言語を理解する事が出来る、という状態になっている。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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「言語を習得する唯一の方法は、留学する事だ」という言葉を良く聞く。
それは厳密には真実ではない。
海外に行けば、自動的に言葉を覚えられるようになると思っているのならば、それは全く間違いである。
言語を習得するには必ず努力が必要である。
2、3年海外で過ごした人も、自国に戻ってくれば単一言語話者に戻ってしまうというのは、私たちがよく目にする現実である。

言語習得の方法はさまざまで、留学が良いと言うのは、その準備から考慮されているのである。
話されてい言語の予備知識もなく留学するのは、混乱するだけで、効果がない。
留学の準備は人によって様々だが、一般的には、学校での勉強が一番良いであろう。
現地での、語学教室も良い。
教室で知識を得た後に、街や飲み屋やその他のコミュニティーで、練習の場として、言語を使うのが良い。

留学の一番の優れた点は、文化的文脈の中の言語を体験出来ることである。
無菌状態の教室で習った単語やフレーズが、一服中やサッカーの試合中の母語話者と言語体験により、生きた言語となり、しばしば意味が変わってくる。
しかし、気をつけなければ行けない事は、ホームシックにつけ込んでくる、私たちの母語を学びたいと思っている現地人である。
留学先で母語を話す事は、出来るだけ避けなければならない。

スペインに留学した友人の体験がある。
彼女は「全身浸礼」を実践した。
彼女はスペインに行ったあと、英語を全く話さなかった。
英語話者のコミュニティーには決して属さず、スペインのテレビ番組を見て、スペインの映画を見て、46時中スペイン語で考えスペイン語を話した。
最初は片言のスペイン語を話していた彼女も、半年後には、かなりのスペイン語上級者となる事が出来たのである。

留学初期は、言われている事を理解するのに精一杯で疲労するだろう。
言語習得が目的ならば、言語的孤立を試すと良い。
母語での生活を極力避け、現地人のコミュニティーに所属する。

様々な支援団体によって、留学のプログラムが組まれている。
注目するべき事は、最終的な目的が言語学習である事、そして、それにふさわしい現地の環境が整えられている事。しっかりと計画された言語教室があるのか、現地の人々と接する機会があるのか。
もしも読み書きや、その他の能力を高めたい時は、また別の学術的なプログラムへの参加が必要である。
留学から戻ってきた人は、たいてい、現地での言語習得や異文化体験に熱狂的になり、そして、自国文化に対しての新しい視点を披露するだろう。
留学それ自体は決して、言語習得の要ではないが、文法的な学習や全身浸礼と組み合わせる事によって、本領を発揮する。

参考文献
Sheri Spaine Long, "Why study languages abroad?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)
原文は英語話者に対して書かれていたので、だいぶ表現を変えました。

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イントネーションとは、アクセントと同じ、音声の高低(振動数)の変化である。
アクセントは一語一語に関係し、同音異義語の区別をする。
イントネーションはアクセントよりも大きい括りの概念で、文頭や文末にかかる。
語彙的な意味の違いには関係しないが、
イントネーションの無い言語は無いといわれ、それ自体に意味があるとされている。
詳しくは日本語のイントネーション(07/09)にある。

特に日本語では疑問と肯定の区別をイントネーションで行う。
IPAではこの区別を斜めの矢印で書き表す。
[ ↗ ] 全体的上昇
「そうですか?(疑問)」[↗ so:udeska]
[ ↘ ] 全体的下降
「そうですか。(了解)」[↘ so:deska]

イントネーションは、
「すごい」、「すっごーい」などの強調とは、また別の現象である。
強調についてはまた別枠で。

参考文献
斉藤純男 『日本語音声学入門 改訂版』 三省堂 2008

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言語地理学(linguistic geography)という分野では、方言の諸要素の刷新を地図上に書き込むと言う試みがなされた。
ジリエロンの『フランスの言語地図』や、ウィンケルの『ドイツ語の言語地図』などである。

これは、一つの地図ではなく、何枚もの地図を合わせてものである。
まず物理的に、国境よりも細かい分割が必要で、全ての記述すべきものを一枚に書く事が出来ない。
さらに、諸要素ごとに境界が異なる事である。
一つの語彙に関して調べるにも、各地の協力者と、かなりの大規模で組織的な調査が必要である。

調べられた要素の、諸特徴の境界線を等言語線(独 lignes isoglosses)、等言語の線(独 lignes d'isoglosses)という。
(シュミットの提唱では、等語線 isogloss
これは、線を境に異なる特徴を有しているという意味で、言語の細部が異なるだけで、言語の境界線ではない。
誤解を防ぐ為に「等言語素(独 isoglossematiques)」という呼び名を提唱したい。
これらは境界線を表す他に、面も示唆する。
諸要素のいくつかの等言語線は、似たような経路を通るだろう。それらに囲まれた範囲が、私たちが普段認識しているような「方言」となる。
実際には、きれいに何本もの線が重なる事はあり得ない。

一つの要素の等言語線で方言を決めたとしても、他の等言語線がその範囲を二分、三分する事がある。
方言の範囲が無限に細かくなってゆくか、要素の違いを受け入れ、単位のまとまりが維持出来なくなるかである。
方言の存在を定義する為には、極端な考えを受け入れなければならない。
方言となる条件を、一つ以上の特徴が他と異なること、と決める。
あるいは、全ての要素を考慮する為に、ある共同体のただ一点のみに限定し、一点で全体を語ること。
方言の単位の、まとまりを維持するために、方言は村ごとに語らなければならない、小集落ごとに語らなければならないと、さまざまな主張がある。
これらは、人々が定住しているという前提で語っている事である。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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"Wherefore art thou Romeo?"
シェイクスピアの代表作『ロミオとジュリエット』で、バルコニーからジュリエットが、真下に居るロミオに語りかける。 
"wherefore"はどこ(where)ではなく、なぜ(why)の意味である。
時を経てこのような単語はなくなってしまった。
もちろん、当時は"blog"のような新しい単語も存在していない。

言語は、雲のように絶え間なく変化する。
昨日見た雲が、まだ今日も空に浮かんでいたり、明日も見れるような事は、とても不自然である。同じように、言語も常に変化するように出来ている。

英語ではしばしば発音と表記が一致しない。
'name'はかつてnah-muhと発音されていた。それが、語末の'e'を発音しなくなり、'a'が二重母音になったことで、現在のようにnaymと発音されるようになった。

発音だけではない。文法も変化した。
千年程前の英語では、動詞は文末に置かれていた。
そして、代名詞も変わった。
かつては目の前にいる人たちの事を、'you'の前身である'thou'であらわし、格言などの一般的な呼びかけを表す時は、'man'を用いていた。
現在はどちらも''you'である。

言語が変化する事は、多くの別の言語を生む原因でもある。
もしも言語が変化しなかったのであれば、私たちは、アフリカで生まれた時のままの、単一の言語を使っていただろう。
しかし私たちは、各地に散らばり新たな土地で新たな言語の形式を採用した。
中国語の声調、アフリカの言語の吸着音や、概念、単数形複数形など違いを生み出す結果となった。

言語が、永遠に全く変わらぬ姿を保っているものは、唯一、印刷である。
誰にも話されず、本に書かれたものしか存在していないラテン語を、私たちは死語と見なしている。
しかし、教室で学ばれているラテン語は、決して死ぬことのない言語の一つの段階である。ラテン語は、フランス語やスペイン語、イタリア語へと、形を変えていっただけである。

人間の短い人生では、その変化は誤りと認識される。
フランスが国家として成立する以前、その土地の官僚や学者達はラテン語を話していた。彼らの周りで話される初期のフランス語は、Fランク(出来の悪い)のラテン語であったという。
いわゆる若者言葉である。
それらの差は、古典英語と現代英語と、同じ過程なのである。

参考文献
John McWhoeter, "7 Why do languages change?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)

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