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「言葉すら違うのに」という言葉は、
だから、考えることはまったく違う、という意味で用いられる。
このように、思考に関する言及は、しばしば、言葉への不満として表現される。 

もちろん、言語と思考は疑いも無く関係しているし、
言語は思考の表出(言い訳や計画や記憶やコミュニケーション)に役立っている。
言語は、私たちの思考を制限しているのだろうか。

それぞれの言語は、それぞれ異なるように物事を捉えているが、
私の言語で考えた事は、私の言語でしか表せられないのであろうか。
しかし、私たちの頭の中には、単語の意味しか入っていない。
 
他の言語には無い、独自の言葉の存在がある。
有名なドイツ語の“Schadenfreude”という単語は、
他人が不幸になったときに感じる、悪意のある幸せのことである。
この気持ちを、その通りに伝える英語は存在しない。

もう一つの例は、色である。
green”と“blue”を同じ語彙で表す言語は少なくない。
4つ、3つ、2つしかの色の名を持たない言語もある。
その言語を使う人は、色を区別出来ないのだろうか。
しかし実験では、これらの言語使用者も、英語話者と同じように、色の認識をする事が出来た。

忘れてはならないのは、
「エスキモーは、雪に関するたくさんの言葉を持っているので、他の人々とは異なる世界を見ている」
というお話である。
原典は、フランツ・ボアズによるカナディアン・エスキモーの言語の報告で、
彼は、エスキモーの雪の語彙に関して触れていても、
その数の多さや、それらが思考に及ぼす影響に関してはまったく言及していない。
ただ、名前を付ける際に、異なる言語では異なる特徴に注目する、とだけ書いてある。

それが拡大解釈され、根拠も無く、様々なメディアに書かれ、
エスキモーの雪に関する語彙は1ダースとも、何千とも言われるようになった。
英語にだって十分に、雪に関する語彙があるのにも関わらず。
 
では、実際に、エスキモーの語彙は、英語では共有出来ない、
独自の世界を人々に見せているのだろうか。
言語が話者の世界を作り、言語が異なる人は、異なる世界を見ているという考えを相対主義という。
 
言語が、私たちの考えを、まさに、形成しているという考えは憶測でしか無く、イメージしにくい。
例えば、動物達には、言語によらない思考が確かに存在する。

ヒンディー語には、「カル」という特殊な時間に関する概念がある。
これは、「昨日」と「明日」の両方を含む概念で、決して他の言語では共有出来ない時間感覚である。
しかし、私たちは結局、この説明文によって、単語の意味を理解する事が出来る。

母語が概念を階層化することによって、
話者の見る世界に影響を与えることは不可能ではない。
しかしこれは、言語が壁を作り、翻訳不可能な思考を生んでいる訳ではない。

参考文献
Geoffrey K. Pullum, "16 Does our language influence the way we think?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)

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言語に関する現象、もしくは研究対象となるような、
包括的な言語全体とはなんだろうか。
一般的な言語現象とは、すでに抽象化された知識であり、
何を一般化したものであるかを考えなければならない。
かといって、部分の寄せ集めで、全体が出来る訳でもない。

第一段階として、言語に関して個人社会を分ける事が出来るだろう。
個人に言語活動能力が備わっていると考える事が出来る。
肺や発声器官は、まさに、個人の所有物で、それによる発声は個別的で偶発的である。
言語活動は、一人でも出来る。
しかし、言語は違う。
一人一人に備わった能力は、共同体により行使の手段を手に入れる。
個別の集合以上の、本質的な、普遍的なものである。
つまり、社会的な産物。

言語と言語活動の関係は、音楽に例えられる。
名曲はさまざまな個人によって奏でられるが、作品そのものは、個人とは区別される。
言語は、抽象的な「一人一人の脳に蓄積された財」として存在し、個人の産物ではない。
しかし、作品なき演奏活動が存在しないのと同様に、言語なき言語活動は存在しない。

アメリカの言語学者ホイットニーは、
言語活動ではなく、社会制度としての言語に重点を置いた。
表出が、聴覚イメージであっても、視覚イメージであっても、言語の本質は変わらない。
言語のように、社会に存在する万人に関係し、
いかなる権力を以てしても恣意的に変更出来ない社会制度は、他にない。

そして言語は、記号学的事象に分類される。
これもまた、他の記号に基づく制度と異なっている。
言語は、内在するシステムによって、記号が直接、指し示したい概念を喚起する。
海上の信号や、軍人の合図のラッパ、手話や点字、文字もそうである。
音声だけでなく、これらは似通った変化の法則を示している。

社会的な産物としての言語を、言語学の対象とする限り、
まず、言語学者は、諸言語の研究から始めなければならない。
社会の産物の多様性を研究する。
出来るだけ多くの産物を知ることが重要である。
そして、それらから、特殊や偶然を排し、
一般的で、本質的で、普遍的な、極度に抽象的なものを見出す事が出来る。

その後に、無限の言語活動を生じる、個人の言語使用に関しても述べる必要がある。
個人が社会的な産物を扱うという事が、どういう現象なのか。
前段階で排除した言語の側面を見る。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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言語は世界共通であり、誰もが皆、母語のエキスパートである。
しかし、日常言語以外にも言語は存在するし、多くの疑問が生じるだろう。
エスペラント語はどうなったのか?
機械翻訳が本当に出来るのか?
どうして、特定の人の文章が、他の人の文章より優れているのか?
これらの疑問に答えるのがこの本の役目である。

まず、何が私たちを人間足らしめているのか、という大きな疑問がある。
二足歩行するからか。否、鳥も二本脚で歩く。
社会に住んでいるからか。否、蟻も社会制度の中に生きている。
他者を愛したり、嫌ったり出来るからか。否、飼い犬にも好き嫌いがある。

他の生物と人間を区別するものは言語である。
人々は何をするのにも、言語が必要である。
そして人間は、この星で唯一、話す力を持っている。

人間は、金持ちでも貧乏でも言葉を話す事が出来る。
子供達は、それに晒されれば、ほとんどの場合10歳までに、流暢な言語を得る事が出来る。
二つ以上の言語も習得出来るし、
もう少し育てば、様々なスタイルの言葉を使い分ける事が出来るようになる。

子供達はどうやって、複雑な言語をそう簡単に習得しているのだろうか。
脳には言語に特化した部分があり、子供達は言語を習得する能力を持って生まれる。
言語のない環境で育った子供は、他の大人のように言葉を習得することはない。
これらを根拠に、多くの科学者は、言語の能力は遺伝的で、その能力は大人になるまでに失われると、信じている。

私たちの議論は、話し言葉に関してである。
読み書きの能力は、全く異なる。文字は、様々な器械のように、人間の発明品である。
話し言葉は、歩くのと同様に、人間の生物的特徴で、自然に獲得される。

この本では、どれほど多くの言語が存在し、また現在も、変容している事が分かる。
地球には数千の言語が存在し、すべて古代の言語から引き継がれ、変化し分離したものである。
十分な時間をかけ、語群や方言から分かれて、新しい言語が誕生する。

そして、言葉の原初についても触れている。
すばらしいご先祖様が、「原初の言葉」を話したのだろうか。
もしくは、太古に宇宙人がやってきて、先祖に言語を教えたのだろうか。
動物の鳴き声の真似から発展していったのだろうか。

霊長類は確かに、お互いにコミュニケーションを取るし、訓練すれば言語による思考も出来る。
しかし、私たちのように、無限の新しい考えを表現する柔軟性を持っていない。

コンピューターも人間以上の高度なシミュレーション能力があり、はるかに賢い。
しかし、人間のように、豊かな文章を作る自発性創造性を持っていない。

感嘆詞や、詩やことわざの引用をする以外は、私たちは、常に、聞いた事も話した事も無い、新しい文章を創造している。
言語が特殊である理由は、この、人間の創造性の世界共通の形式であることである。
偉大な詩人、俳優、雄弁家でなくとも、私たちは日々、言語を作り出しているのだ。

言語よりも、普及し、役に立つような人間の特徴は無い。
言語は全ての人間の考えを、そして言語自身さえも、表現する事が出来るのである。

参考文献
Robert Rodman, "1 Why lean about language?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)

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第1部 諸言語
植物学や昆虫学と同じように、「言語」に関わらず「諸言語」を分類する事は出来る。
「言語」とは論理的な側面である。
「諸言語」は、言語学者がこの地球上で手にする事が出来る具体的な対象である。

第1章 言語の地理的多様性 異なる種と多様性の程度

言語の多様性には二つの種類がある。
国から国へ、町から町への移動によって認識出来る変化と、時の流れに従う変化である。
必ずある世代に属している観察者に取って、時間の多様性は認識しにくい。
それに比べて空間の多様性は知るに容易く、人々を、もっとも明確に分類する基準である。
原始の人々に取って、言語の違いは習慣の違いであり、服装や装飾、武器の違いと同等であった。
この認識は(肌の色や体格差など、人類学の域に至らない限り)正しい。
「固有言語」とは、ギリシャ語で”idiome”といい、一民族に固有の特徴を持つ言語を指す。
ギリシャ語では、一民族の習慣という意味で、それは言語を含んだ諸習慣を指す。

どの民族にも、自分たちの言葉が正しいという意識は存在していた。
ギリシャ語の”barbaroi(バルバロイ、異民族)”は、
ドイツ語の”balbus(吃音、どもり)”と同じ言葉である。
インド語族では、話し方を知らない人と、吃音者を同じ単語で表す。
このように、異なる言語を話す人を、話す事が出来ない人とする認識は間違いである。

このように言語の多様性は、言語学を発展させるのに十分に興味深いものであった。
しかし、ギリシャ人は異なっていた。
多言語の存在も方言の多様性も認識していたが、彼らの興味は書き言葉であり文法であった。

ここで、二点書き加えておく事には、まず、言語の多様性は無限である事だ。
しかし、多様性と文法を扱うものが、同じ言語学であって良いのだろうか。
この二つを言語学内で結びつけるものは何なのだろうか。
もう一つの点は、言語の多様性を、民族的なものと認識する事である。
より複雑な民族との関わらせることで、地理的多様性の奥へと踏み込む事が出来るし、
言語の時間的多様性、そしてそれを阻止しようとする動きも考える事が出来る。

多様性の次に重要なのが類似性である。
ギリシャ語とラテン語、もしくはフランス語とドイツ語の類似性は、
民衆が一番良く分かっている事だったので、それを確かめるために科学者は必要なかった。
このため比較言語学に発展が遅れたのである。
類似性よりも大きな枠組みに、類縁性がある。
これは、系譜、家系的な考え方で、一つの共通の起源にさかのぼる事が出来る。
そしてこれが言語族と言う新たな枠組みをつくる。
さらに類似性を追求するのならば、遠く離れた言語族の、類似性の限界に直面するだろう。

ここで、多様性をまた二分する事が出来る。
ひとつは、類縁性の中の多様性
つまり、同じ言語族に分類される中の、多様性である。
もうひとつは、認めうるあらゆる類似性を越えた多様性
ヨーロッパから出るならば、ほとんどがこのような言語である。

この決して類縁性を見つけられない言語を、言語学者はどのように扱うべきなのか。
セム語族と印欧語族の類縁性を見つける努力もあり、
イタリア人のトロンベッティは、世界中の言語にある類縁性を示そうとした。
しかし、科学をするかぎり、真実らしい事と証明出来る事の溝は大きい。

それでは、類縁性の見出せない二つの言語を比較する事は出来ないのだろうか。
歴史的関連を掲げる比較が不可能でも、
文法構造や言語と思考の結びつきの違いを比較する事は出来る。
この二種類の多様性の研究は、まったく異なるものとなる。

さて、多様性にも程度がある。
類縁性の中の多様性にも、近い遠いが存在する。
ギリシャ語とラテン語の違いは、サンスクリット語から見たら微々たるものである。
突き詰めてゆけば、「方言」と言うものを目の当たりにするだろう。
「言語」と「方言」の明確な境界は存在しない。
従って、この二つの語彙の意味付けはしない。

参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール著 影浦峡、田中久美子訳
『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 東京大学出版会 2007

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多くの人は、「言語」を、私たちが話していることば、
「方言」を、他の誰かが話している言語の変種、と認識している。
あるいは、「言語」は標準な、政府やアナウンサーのことばで、
「方言」は家庭的で地域によって異なり、アナウンサーが話さないことば、と。
しかし、「言語」と「方言」という単語は、客観的でなく、科学的用語でもない
もちろん、言語学の用語ではない。
言語の変種は、政治的かつイデオロギー的な理由で、非言語学的に、「方言」と名付けられる。
「方言」は、「言語」よりも良くないと考えられている。
しかし、何が方言であると言う判断は、あなたの立場と見方によって、変わる。

言語学的な見方では、方言に優劣はなく、「言語」という価値を与えられることも無い。
例えば、フランスでの「言語」と「方言」は偶然に決まったことである。
10世紀に、フランスの王として選ばれた伯爵が、たまたまパリの人だったので、現在、パリのことばがフランスの標準語となっている。
マルセイユのことばやリヨンのことばが、フランスの言語となる可能性もあった。

『マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)』の劇中で、音声学者が言うことには、
方言は、社会的に定義されている。
この劇は、実在の音声学者ダニエル・ジョーンズをモデルとしたヒンギス教授が、
下町訛りの花売りの娘を、上流階級の恋人に相応しい女性に仕立て上げるために、話し方を指導する話である。

同様に、方言は政治的に定義されている。
有名な言語学者マックス・ヴァインライヒよると、「言語とは、陸軍と海軍を備えた方言である。(A language is a dialect with an army and a navy.)」
政府は、しばしば、何が「言語」で、何が「方言」であるかを決めるのである。

権力を持ったある人物や政府に、独断的に定義されることもある。
現在、ツォンガ語(Tsonga)の名前で知られるアフリカの言語は、12世紀に宣教師が、3つの言語を一括りに名付けたことによって、作られた言語である。
また、南アフリカ共和国は、明確な差も無い言語を二つに区切り、ズールー語(Zulu)とホサ語(Xhosa)を作った。
方言は、「方言の連続体」なるものを形成している。
隣接する方言は大した違いも無いが、両端の方言は互いに理解不可能である。

発音の違いや、ちょっとした単語の違いによる方言もあれば、互いにまったく理解出来ないような方言もある。
ケルンのドイツ語と、バイエルンのドイツ語は互いに理解出来きないし、
スイスの公用語であるドイツ語を、理解できるドイツ人は少ない。

もし、互いに理解が出来るのであれば、それはひとつの言語の方言であり、
出来ないのであれば、異なる言語である、という考えもあるだろう。
ではなぜ、ケルン語とバイエルン語に分かれていないのだろうか。
また、スウェーデン人とノルウェー人は、互いに苦もなく話をすることが出来るが、スウェーデン語とノルウェー語はなぜ、別の言語なのだろうか。

そして、A方言の話者が、B方言を理解したくないときに説明ができない。
例え、客観的な言語学的基準により、相互に理解でき同じ言語であるとされても、彼らは、別々の言語を話していると主張するだろう。

このように、「言語」と「方言」という単語は政治的、社会的に歪められている。
根本的に、全ての言語は方言であるのだ。

参考文献
G. Tucker Childs, "3 What's the difference between dialects and language?"
E. M. Rickerson, Barry Hitton, ed., The 5 Minute Linguist (USA; Equinox Publishing Ltd., 2006)

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