忍者ブログ
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

認知とコミュニケーションとしての言語は複雑すぎる。
言語学の目的は、この複雑なものを抽象化することで、
重要な意味があるだろうその複雑なものを、説明することである。

抽象化は、言語学的描写のモデルを構成する工程の一つである。
モデルは、現実から離れて居なければならず、
実際のところ、現実にほとんど似ていない。
言語学だけでない。
物理学の波や粒子のモデルは、現実の経験とはまったく関係がない。
けれどもそれは問題にはならない。
逆に、存在しないものを明らかにすると言う点で、そのモデルには意味がある。

すなわち、存在しない特徴を明らかにする言語学のモデルをつくるのだ。
モデルは、現実の理想化されたバージョンである。
本質と思われる特徴を優先するため、二次的だと思われる特徴は取り除かれる。

案内図のようなものだ。それは現実ではない。
混乱を避けるために、詳細を省いた路線図は、現実とはまったく似ておらず、
駅との間隔もまったく当てにならない。
このような案内図は、地上の道を歩くのにはまったく使い物にならにならないが、
現実の複雑さをまったく反映していないと、文句を言われることはない。
地下鉄での移動のための案内図であり、
そのために必要の無いものは、書いていない。
map.jpg
言語の複雑な領域モデルも然りである。
案内図のように、すべてのモデルは簡略化され特定の分野にて力を発揮する。
他のものを隠す事によって、特定のもの示すようにデザインされている。
全目的のモデルは存在しない。

経験を説明するためにデザインされたのであって、
経験との一致を期待するするべきではない。
真実をすべて捉えようとしたら、それはモデルではなく、ただの地形図だ。

地図作成も言語学も、以下のことを知ることが大切である。
どの縮尺を使うのか、
何を重要とするのか、
どこに、理想化された抽象と、現実の個別なものの線を引くか、を。

拍手

PR
言語は、人々の相互作用の手段として、社会的な存在である。
言語によって私たちは、
私的な経験と他の人たちのとの情報伝達を、
公に表現し、
他の人と合意し、
他の人との関係を調節することが出来る。

外国語を学ぶ場合、
異なった社会背景の言語を使うための、一般的に合意された方法がなければならない。
(異文化交流のマナーが、言葉においても存在するわけですね。)
その点において、言語を学ぶことは、社会に服従することである。

同様に言語は、
社会の服従しない、自分語りの手段でもある。
常に、個別の戦略のための空間が存在している。
例えば、フランス語、スワヒリ語、中国語では、話者が単語を結合して使うことが出来る。
彼らは、記号の潜在能力を利用して、その言語での特異な表現を創造している。
個別の表現はぎこちないが、
彼らは、違う能力を、違う場面で、違う目的で利用したのだ。

個人の言語の使用パターンは、指紋と同じで、生来、特徴的である。
話し方も、音声で識別できるだろうが、
音響学上、けっして他のものとは似ていない。

言語学の文法の知識と機能は、
実際の行動に注目すれば、とても個別的で種類がある。
したがって、社会のコントロールは、個別の創造の必要条件であろう。
現実に近づけは近づくほど、
一般的な抽象が見えなくなる程に、多くの差異に気がつく。
したがって、言語学的尺度に沿って、限界点の設置を考えた方が便利だ。

拍手

前回述べたような仕事は、フェルディナン・ド・ソシュールによって成されている。
近代言語学の基礎を築いたとして有名な有名な、
スイスの学者である。
彼は、言語を二つに分けて考えていた。
共有された社会的記号、抽象的システムであるラング(langue)と、
残された、個人の会話の個別な現実であるパロール(palor)である。
19世紀初頭の有名な講義で、彼は、
言語学はラングを研究対象とすべきであると提唱した。
彼曰く、ラングは知識の集合体であり、
その言語コミュニティーの皆が持っている公共の参考書である。

抽象システム(ラング)と実際の発話(パロール)の区別は、
種類が多く雑多な個別の現実の会話を、パロール言語学という分野に収めることで
研究対象として捉えやすくした。
そして、ラングの概念で言語の中枢を捉え、言語の一面として定義することが出来た。
パロールは、偶然の産物である。
表面上の振る舞いであり、知識の反映である。
ラングは、言語学の便利な規則であり、それ自体が、言語の基本的な規則である。

ソシュールの提唱の問題点がいくつかある。
一つは、言語固有の不安定さにより、ラングの概念が消えることだ。
言語は使用者の必要に応じて、常に変化している。
言語は状態ではなく、過程である。
彼もその点には気づいていた。

ソシュールは、
通時的(diachronic)様相である言語の変化を説明するため、
伝統的な歴史言語学を学んでいた。
そこで彼は、共時的(synchronic)状態での、
特定の時点の断面図としてのラングを思いついた。

注意すべき点は、共時性・同時性と、安定性の取り違えである。
共時的な断面図は、いつだって流動である。
言語は、時がたてば変化するのではなく、いつでも変化しているのだ。
同じ時代でも、異なる世代は異なる記述をする。
どれだけ短い時間でも、
言語の多様性が限られていても、
言語の使用者のコミュニティーによって調節されたバリエーションが存在する。

時を経た、通時的変化はシンプルで必然であり、
いつも、共時的バリエーションの結果なのだ。
通時的様相と、共時的状態の関係を、ソシュールはチェスに例えている。
共時的断面図はチェスの局面である。
ゲームの通時的関係(前の手、次の一手の動き)を無視して、
ボードの上の駒の配置について研究することが出来る。
逆に、ゲームの局面を考えずに、一つの駒の動きの傾向を見ることも出来る。

ゲームは一手一手、止まるけれども、言語は継続して区切りが無い。
それを停止させるのが言語学である。

通時的、共時的側面は、現実に明瞭な特徴ではないという主張も在り得る。
しかし、それは、決してその視点を無効化することはない。
それは、すべての言語モデルについても当てはまる。
もし、バリエーションと変化を両方捉えようとしたら、
違うやり方で理想化の線を引かなければならないが、理想化は無くならない。
そして結果として、出来上がったモデルは、
バリエーションを捉える上で必要な枠組みを支える、言語の安定性を明らかに出来ないだろう。

拍手

ソシュールの、ラングとパロールの関係と比較されるのが、
ノーム・チョムスキーの提唱である。
彼も言語を2つに区別して考えた。
言語の使用者が、抽象的なシステムとして持っている、
自分達の言語の知識としての言語能力(competence)と、
知識による実際の行動としての言語運用(performance)である。

言語運用(performance)は偶然的であり、周囲の状況に依存している。
私たちは知識だけにのっとって行動しているわけではない。
私たちがやっている事と、私たちが知っていることは同等ではない。
実際の言語行動は、言語の知識以外の、周囲の要因で決定する。
その点で、言語能力(competence)と言語運用(performance)は、どうやっても、一致しないものである。

チョムスキーの分類は、
知識と行為の区別、言語的視野の区別の2つの点で、
ソシュールの分類と似通っている。

だが重要な相違点がある。
チョムスキーの分類には、その重要性についてためらいが無い。
言語能力(competence)とは、言語学的研究の役に立つ規則、便利な構造ではなく、
中枢を占める規則であり、根拠の確かな構造である。
言語能力(competence)は、本質であり、根源である。
言語運用(performance)はその残りの部分であり、皮相的なものである。

ソシュールのラングは、社会に共有された、共通の知識である。
チョムスキーの言語能力(competence)は、個人個人才能であり、心理学的現象であるとしている。
人間には、ある一つの言語ではなく、どんな言語にも当てはまる能力を、
獲得するプログラムが先天的に備わっている。
コミュニティー構成員によって定義されるラングは、
何が言語らに差異を生じさせているのか、
何がある言語を特徴づけているのか、に注目が行く。
一方、人類の構成員によって定義される言語能力(competence)は、
何が言語らに類似を生じさせているのか、
何が言語を、人類に特異なものとしているのかに、注目が行く。

チョムスキーは、人類の精神の普遍性に関するものとして言語学を定義しており、
認知心理学の一分野として考えている。
言語能力(competence)は、
コミュニケーションにおいて、言語の形式がどのように機能しているのかを考慮せずに
言語の普遍性の証拠として、言語の形式に注目する。
この点において彼の主張は形式論的である。

チョムスキーの言語定義は、
抽象化すればするほど、実際の言語使用との関連がなくなってゆく。
本当に抽象的な知識だとすれば、
それは実際の行動の根拠にならず、
意識的に理解も出来ず、存在を証明することも出来ない。
しかし、周囲に目を向けるほど、意味のある一般化の方法がなくなってゆく。
唯一、抽象的知識を証明できるとすれば、
それは言語使用者の代表としての言語学者の直感である。
しかし、言語学者が、典型的で、信頼できる資料提供者であるという理由はない。
この理想化のジレンマは、常に私たちにつきまとう。

チョムスキーの提唱の矛盾の指摘として、以下のようなものがある。
言語能力は、
人間の知識の範囲を定義し、UG(04/11)の要素を決定する、
組織だった規則の抽象的な集団である。
言語で一番重要なもの、人間の精神の才能、種の先天的特異性など、の証拠になる。
つまり、言語の中心である言語能力(competence)は、それ自体が中心ではない。
チョムスキーの言語学は、文法についての学問である。
しかも、文の構成要素の構造的関係、いわゆる統語論(syntax)についての、
文法を研究する学問のなかでも、特定の範囲である。

チョムスキーの言語に関する記述は、非常に幅広く広範囲にわたっている。
しかし当然ながら、言語それ自体に関しては、非常に狭い。
チョムスキーの提唱は、実際の経験とか遠く離れた、抽象的な説明であり、
驚くことは何も無いが、欠けているものもある。

拍手

チョムスキーのモデルに対する反論として、
彼の言う、言語学の知識というものがあまりにも狭すぎて、
文法の知識である統語論のことしか意味していない、というものがある。

言語を知ると言うことは、形だけでなく、
それがどのように機能するかを知ることである。
形式や文構成要素としてでなく、
複雑な統語論との相互作用なす意味の単位としての語を、知るべきである。
その結果、
言語の形式的なシステムは、現実の意味の記号化としての語と、共同で発展してゆく。
この点から、言語学とは本質的に、
どうやって言語は、意味をなしているのか、
どうやって機能上の情報を与えられているのか、という意味論(semantics)の研究をするものである。

チョムスキーの形式文法は、
統語論のとある特徴と、普遍的で先天的な人間の認知方法との一致を求めている。
反対に、機能文法の点から考えることが出来る。
言語が、どれほど環境によって左右されているか、
どのように社会的使用による変形があるか、
どれほど与えられた機能を反映しているか、を考える分野である。

言語の知識について問題なのは、
言語が何を意味しているのか、という形式の内的機能ではなく、
言語によって人々は何を意味しているのか、という形式の外的機能である。
抽象的な知識は現実のものにしなければならず、
それは、知識によってランダムな文章を引用するのではなく、
知識を実際のコミュニケーションとしての言語使用の中に置かれることによってなされる。

人は、単純に、何を知っているかを表現しない。
知識に基づいて行動するが、行動は様々なしきたりによって制限されている。
この点において、言語能力(competence)は、抽象的な知識であり、
かつ、習慣に従い知識を使うことが出来る才能(ability)である。

言語能力を訂正し、言語モデルの境界線を引きなおす方法が二つある。
① コミュニケーションのための資源として、言語の本質を現す相を含めることによって、
記号と内的言語を構成しているものを、定義しなおす。
それは結局、機能文法に帰着し、言語学的知識の概念を広げる。
② 知識と才能(ability)を両方含むように、言語能力(competence)の概念を広げる。
そうすると、言語運用(performance)は行動の特定の実例となり、単なる知識の反映ではなくなる。
才能(ability)は、言語能力(competence)の中で決定権をもつ存在であり、
そのおけげで私たちは、知識をはたらかせ、意味を表現できる。

言語能力(competence)が単なる抽象的知識であれば、
精神に吸収されたままで、現実との接点を失い、外に出てこれなくなってしまう。
才能(ability)がコミュニケーション目的によってのみ機能するものであるから、
私たちは、これの広範囲な概念を、伝達能力(communicative competence)と呼ぶことが出来る。

拍手

言語学が大好きな一般人のブログです。 過去の記事は、軌跡として残しておきます。
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
プロフィール
HN:
てぬ
性別:
女性
自己紹介:
大学院で言語学を学びたい大学生が、日々の勉強の成果を記録してゆく為の、個人サイトでした。
最新コメント
[07/22 てぬ]
[07/20 ren]
[05/24 てぬ]
[05/22 ゆう]
最新トラックバック
バーコード
P R
忍者ブログ [PR]